牟呂用水が有効利用されるのは流材の利用だけではない。
今まで渥美郡の高師村地内の梅田川の水力を用いていた豊橋電灯会社は常に水力が乏しいのを感じていたので、牟呂用水路の大海津における高低が一丈余あるのを同会社は非常な熱望をもってこの水力を貸与してほしい旨を依頼してきた。
発電が世の中に与える利益は少なくないと考え協議の末、 該使用料を決め、これを承諾し明治28年9月にその筋に出願し許可を得て、同会社は発電所の移転をした。
以来、今日に至るまで終始好都合に運営されている。
なお、発電所より3丁程下流の所に、ほぼ六尺の高低があり、これを利用して水車事業を創設し、米麦製春(精米・精麦?)、及び小麦粉製造等をし、今なお盛んに運営している。
前の数章にて詳しく述べた牟呂用水路は明治26年8月に井堰大破の後は新田築堤を急いだので、この方面工事と改良の進行時期が遅れていると感じていた。
明治29年11月の大雨で堰埭が破壊し30年中にこれが復旧あるいは改良の工事をしたが、31年6月の大雨には朝倉川と神田川の掛樋、その他全水路に渡り破壊し、その箇所は十余に及んだ。
工事中の半ばに再び同年9月の暴雨出水に遭遇し、ほとんど修理の暇なく被害が頻発したので、直ぐに復旧するのは不得策だと悟り、一旦総ての工作物の改善を中止し同年の末より32年に亘り昼夜工事を監督して、ようやく竣工することができた。
この間は非常に困難だっただけでなく、作業の費用は驚くような巨額になったが、このおかげで水量が大きく増加することになり、特に新田の塩分を年々除去すると同時に幾分の剰余水ができたために渥美郡の牟呂と花田と吉田方の3村より32年中に分水灌漑の希望が申入れられた。
明治34年3月に3村の用水普通水利の組合の設置を待って初めて完全な契約を締結し分水工事に着手し一部は同年より、他は35年より灌漑分与することになり、その反別はおおよそ420町歩であったが36年春には該組合の工事の全が完了し幾分の反別の灌漑が増加できた。