鵜多須門(うたすもん)

 ・神野家の江西の旧宅近くにあった江戸時代の鵜多須代官所が明治維新で廃止となり、明治4年に建物が入札となった

 ・明治7年に初代金之助が長屋門(鵜多須門)を購入し、当時の江西の本宅改築に合わせて移築した

 ・明治24年の濃尾大震災で本宅と長屋門が破壊されたが、扉は全く被害が無かった

 ・明治29年の神野新田成工式後、被害の無かった扉を神野新田事務所に利用した(三重で使うことも考えられた)

 ・昭和7年に扉を神野事務所から三渓園に移され、現在は下の写真の状態で保存されている

 ・由緒ある門戸は、2018年頃解体された神野新田事務所の長屋門扉として、35年ほど使われていたわけです



鵜多須門の由来(神野新田事務所から現在の間の設置場所)

 明治7年4月 尾張国鵝多須陣屋廃止二伴ヒ 建築物ノ入札払下二際シ 長屋門一棟ヲ落札セリ 此ノ長屋門ハ槻 桧等ノ良材ヲ用ヒ 間口22間 奥行3間ノ結構ナルモノナリ 之ヲ江西自邸二移シ本宅ノ改築トトモニ 同9年早春落成セリ 然ルニ明治24年10月28日濃尾大地震ニ当リ 江西本宅トトモニ 長屋門ノ破壊ヲ見タルニ 門扉ノミ完全ナルヲ得タリ 依テ後日神野新田ノ成工トトモニ 事務所ノ扉二使用シタリ 追テ昭和7年三渓荘新築二際シ 江西旧長屋門跡ノ土台石及敷石ノ保存セラレアリシタ運ビ 其ノ儘本門ノ敷石二用ヒ 又神野新田事務所ヨリ扉ヲ再度移転シ本門ノ扉トセリ



尾張国鵝多須陣屋

八開村(現地の史跡案内板より)

 鵜多須代官所は、天明2年(1782)4月に設置され、その後約90年24人の代官が任命された。支配地は岐阜県の一部にまで。

 主な仕事は地方行政一般で蔵入地の貢租の決定、取立、諸運上の調査徴集、宗門改帳・人別帳・五人組帳の検査、土木工事(河川堤の普請・橋の架け替え・杁の伏せ替)、治安維持(警察・裁判・調停)、勧農など行政上のすべての権力を持たせた。

 代官所の定員は代官・手代・並手代・足軽(同心)・小使5であり代官所には代官・手代・同心が居住する屋敷があり、近隣には代官所へ出頭した庄屋などへの食事宿泊のため「郷宿」もあった。

 明治維新後、全国の代官制は廃止され、この鵜多須陣屋も明治4年(1871)10月その歴史を閉じた。廃止後学校として利用されたこともあったが、やがて建物は払下げとなり今では跡形もなくなっている。