第34章 牟呂港の前途
当新田の位置は深く、三河湾の極めて奥にあって背後に豊橋町がひかえているため、この地を開いて船舶の停泊の便利が良くなれば旅客往復の一大基地になる。
そのため牟呂用水の柳生川と合わせて一つとし、海に達する所の延長約800間の所を広くして、しゅんせつしと修理をして船舶が柳生川まで遡れるようにした。
またその港口を一層広く方形に修築し、和船はもち論、汽船とも安全に停泊できるように改善し、ここの所を称して桝形と呼んだ。
以後は海運業者の着眼する所となり、当港より田原に達する定期航路、及び伊勢国神社港へ達する定期航海等が開始され、風帆船と汽船との別なく、帆柱を連ねて港内に停泊するようになり遠くの各郡からも参宮の参詣者、及び商品などの往来集散が非常に盛んな川筋となった。
さらに陸路海に達する便利を得るために、右川筋に沿って港口に至る第1号と第2号堤防の上に砂礫を設布して通り道に充て、また港頭の繁栄を計るため桝形内に家屋、及び倉庫を建築した。
以来、牟呂港の名声は次第に世に高まり、前途多望な良港となった。
第35章 塩田の開拓
当新田内の東南の一部「りぬるを」の各字は築堤後3年を経過しても塩分が多く残っているのと、この部分の地質はほとんどが薄砂であるため当時は地質改良の研究中で、明治29年の末なって、この土質を肥沃にするのは至難の事であり、多額の費金を投じても、果して効果が出るか否か疑問であった。
そこで、この際目的を変えて塩田を開拓するのはいかがかと考えて、以来塩業の調査に着手し、30年2月に小さな区域で試験したが、その成蹟は悪くは無かった。
そこで3地方の小規模の塩業にならって次第に開拓をしたが到底広漠な塩業専門地として不適当なことを悟り、30年の夏、塩産地である赤穂、味野、松永、竹原、三田尻、さらに四国各地を巡視した。
この分野を徹底的に調査して、遂に赤穂、味野の2ヶ所より熟練の者を招いて十州の塩業にならい工事を改良したが、結果はうまくいかなかった。
31年の春に竹原、松永の方法に一部の改良を加へ百名に近い従業者を雇い、これに地方の働き盛りの作業者を交え塩田を大きく拡張し、30町歩余で浜数は第1番より第11番に至る11浜を開拓した。
この工事中、31年6月、及び同年9月の大風雨に遭遇し地盤はもち論、建造物を破壊させられ、以来年々多額の損害が生ずるのみで永遠維持すべき事業ではないと思い、35年の事業年度をもって一部を廃減することになったが、その要因は 次の通り。
一.内地の塩業との違いは年々その度を高めたが、1つの湾の塩業の隆盛では外国からの大規模な
塩輸入には勝てない
一.作業者の多は遠隔地から招いたので旅費はもち論、給料の割増が必要で不経済であった、
また新田の小部分を塩田としたために他の大部分の農作地に害を及ぼし、塩分除去の目的に反する
だけではなく、たびたび汐水の被害を受けることが多いので、完全に隔離した工事をしようとする
と、その工費は数十萬圓に及び、到底支払えるものではない
以上列記の理由により一部縮少の分は直ちに農作地に復旧したが、畑地であった所は既に幾分の植付がされており、その成蹟が良好なので、水田でも大に有望であるとの期待で農民は争って作付の希望を申入れてきた。