第30章 三策の実行(寺院の建立)

 第三策については明治23年中、豊橋大谷派別院より当新田に新設した説教所は、毛利新田の時の明治25年の破堤に際し全て漂流し、その後牟呂村の本村地内に移し、以来同派豊橋別院より毎月一度僧侶を派遣し説教会を開いていたが、住民の多くは散乱しており、説教の聴聞に来る者がいないため説教会を減らすことになり、結局は有名無実の状況となっていた。

 そのため大谷派本山執事の渥美契縁師等に寺院建立を相談すると、師も大に賛成したが、何分寺院建立をするには現在の規則では容易に許可が得られない。

 しかし、幸に京都府の伏見に無住で廃寺同様なった圓龍寺という寺院があり、その寺籍を譲受け、その後に寺院移転の認可を得るのが都合が良いとの話となり、豊橋別院の輪番船見の惠眼師に協議を試みた所、惠眼師も大にし賛成し、渥美契縁師等の所説は筋の通った良い方法なので進めようとの意見であった。

 それぞれ協議して以前の大谷派説教所を廃止し、更に土地の準備として新田内の字(つ)の割に寺院の境域を2,000坪と定め、惠眼師を圓龍寺の住職として該寺を当方に移し、又そのお堂を初め一切の建物、並びに永代維持金等は都で寄附することと定め、明治28年9月上に趣旨を京都本山、及び京都府と愛知県庁へ出願して、29年8月31日に移転の許可を受け、同時に管長に請いして一躍した別除音地の寺格を得ることになった。

 以来、仮堂宇をもって住民はもち論、附近村落の信徒のため、時々名僧を招いて宗教の普及を図り、人心を改善することに勉めた。

 その成果は近年では大いに成功したため寺院の新築を決断し、明治32年径3尺の梵鐘を鋳造し、鐘楼を新築した、又同年より本堂始め材料集めに着手し、詳細は次のようである。 

 

 ・本 堂 1宇  奥行 15間   梁行 12間           ・鐘楼堂 1宇

 ・庫 裏 1棟                      ・玄 関 1棟

 ・書 院 1棟                      ・その外廻廊初め附属の建物

 

  以後、成工を急いだが、巨大な木材等を運送する事が容易ではなく、明治34年10月16日に地鎮事、及び起工式を挙行し、明治35年10月13日に立柱式を行った。

 この間、日に数百の役夫を監督し工事を大きく進行し36年4月15日を期して上棟式を執り行い、引続き工事に関わる全てを取急ぎ、仏前の飾りを初め一切の備付に至るまで全て揃え、37年4月15日をもって遷佛供養会を勤めた。 居住者の慶びは言葉では表せないほどであった。