新田の大手堤防再築工事に着手したのは、実に明治26年6月上旬であつた。
先ず第一着に大手堤防の中央部にあった旧堤防の残存部分を工事本部の場所と定め、新に屋舎数棟を建造した。
堤防全部を分割して10区とし、その1つは本部のある所とし、他は1区毎に台場を築き、これを作業の拠店として工事に必要な屋舎を建て石工人夫を配置して一斉に築工することにし、そして台場は後日そのまま堤防とするように設計した。
諸区の内、海底が最も深い所3ヶ所を選び、ここを澪留の場所と定め、1ヶ所は延長60間、他の2ヶ所は延長各25間で、澪口は人造石で取り囲み杭筵を使って左右の防障に充填し、澪敷は幅20間として、これに粗朶蒲焼を布設し、その上に砂礫を詰めた叺、及び石籠を累積する方法をとった。
その設計が余りにも簡単だったので澪留が完成するまでの維持が困難だと心配しているものが多かったが、ことごとくその設計を採用することとなった。