新田開拓の起工にあたり、毛利氏は大工事であることから一般企業の監督では能力不足と考え、愛知県庁に監督を請願し、検討された結果、新田開拓は非常に重要だとの判断で県庁から監督者を派遣すことを許可した。
新田開拓を県庁直轄工事と同等の扱いとし、事業の全てを愛知県知事の責任の下での工事とした。
明治21年4月15日、愛知県庁は毛利氏よりの願いにより築堤起工式を挙げた。
以後、着々と工事を進め、翌明治22年7月5日をもって澪留を行うことにし、あらかじめ十分の準備を整えていた。
当日(明治22年7月5日)は早朝より作業員を配置して3ヶ所の澪を問題なく築くことができ、一同は大いに安心した。
しかし、その時に一筋の大波が崩れるように押寄せて、突然2ヶ所の澪を破壊去り、ただ1ヶ所のみが残った。
関係者の落胆は大きく、一時は失望の淵に沈んだが、しばらくして我に返り再び勇気をふるい立たせて工事にあたり、その翌日の7日に第2次の澪留を完成させた。
以後、昼夜無く突貫工事で頑張り工事の完成も近づき安心していたが、天変地異等思っても無い中、同年9月14日(9月11日が正しい)に未曾有の大津波(大海嘯が正しい)が起り、三河国はもちろん、近隣諸国の新田もことごとく堤防が破壊される被害に遭遇した。
毛利新田も被害を免れられず、激しく押寄せる波で全て破損し、工事の跡形が無くなってしまった。
開墾事務所やその他の建造物も全て滅亡しただけでなく、作業者数十名が亡くなってしまった。
出張してきていた役員は体一つで逃げるのがやっとで、帳簿や什器も全て失い非常に悲惨な状況であった。
しかし、あきらめることなく、再び工事をすることを決意して尚一層努力し日夜を問わず全力で完成を急いだ。
同年11月第3次の澪留を終り引続き堤防の築立をしようとしたが、季節は既に寒い時期になっており、強烈な西風で工事が思うように進まない中、またまた同月26日(明治22年11月26日)に大きな波浪のために澪のいくつもの部分が破壊した。