第 2章 牟呂用水の起因
新田開墾にあたって、まず必要なのは新田に灌漑する用水の確保である。
毛利氏がどのようにして用水(後の牟呂用水)を設計したかを説明する。
三河国八名郡加茂、金澤、八名井(後に長部村の大字となる)の3ヶ村は、前年に大日照りの被害にあって苦しんでいたので、何度も協議の結果、同郡の一鍬田村(後に長部村の大字となる)の地内で豊川筋に井堰を設置し同川堤防に樋門を造って用水路を開墾して3ヶ村の水田に灌漑することに決め、ただちに工事に着手した。
しかし、不幸なことに工事半ばで工費が支払えなくなると共に、水路が再三破壊される災害に遭い当初の設計を完成できなくなった。
多くの人で議論を重ねたが、到底解決できる手段も見つけられず、愛知県庁へ陳情して補助金を願い出たが、県庁としても直ぐに許可することもできず、3ヶ村の住民は途方に暮れ悲しんだ。
愛知県知事の勝間田稔氏は、毛利氏に破壊した用水路を延長して牟呂村まで引いてくれば、開墾土地の用水に利用することができると話した。
毛利氏は大に同意して、一鍬田村から牟呂村に達する用水路開墾の事業を、その筋に明治20年11月に出願した。
そして同年同月26日に毛利氏の出願は許可され、毛利氏は直ちに用水工事に着手した。
第 3章 牟呂用水の竣工 附反対者の苦情
毛利新田用水起工の翌年の明治21年に、豊川筋の船頭一同や荷問屋一同が共に、勝間田知事を被告として用水路開墾許可取消の訴訟を名古屋控訴院に提起した。
その訴訟の理由の概略は次である。
・毛利新田用水路が開墾完了し通水すれば、豊川筋は減水し我々水運業者に与える被害は 少なくない。
・それなのに知事は毛利一個人のために、われわれ公衆の利害を無視し開墾する許可をしたのは、極めて
不当の処置なので、至急に許可を取り消すこと。
世間も勝間田知事が同郷の旧藩主(山口の毛利氏)の支流(家老)の毛利氏なので便宜を図ったと思い、一時反対派に賛同した、また特に県下の諸新聞紙は筆を揃えて勝間田知事の措置を非難し、事態は非常に難しい状況になったが、毛利氏は中止を考えることなく急いで作業を進めた。
反対派総代の八名郡乗本村の菅沼耕一、その他の諸氏、および訴訟代理人の鈴木貫之、国島博の両氏は、度々県庁に迫まって工事の中止を要求し、更に東京組合の実力者の增島六一郎に依頼するなどして大いに画策した。
しかし結局、八名郡長、南設楽郡長、宝飯郡長、渥美郡長の四氏より豊橋の三浦、杉田の両氏にもめ事の仲裁を申込み談判の末、豊川筋の浚渫(しゅんせ)費として毛利氏より一時金を若干出すことで結着した。
そして、明治21年1月反対の問題は解決し、船頭と荷問屋等は翌2月に訴訟を願下げた。
なお、宝飯郡は前年に井堰を豊川筋に設けて同郡各村に用水(松原用水)を引いていた。
そのため、毛利新田の用水の井堰を、その上流の2~3キロメートル離れた所に新設されたので、また一層の争いごとや水路筋各部落において種々雑多の苦情が出ると思われた。
そのため、相当数にのぼる契約を結んでもめごとを絶つことができたので、その後ますます工事を急ぎ完成させた。
この用水を牟呂用水と呼んだ。