愛知県三河国渥美郡牟呂、磯邊、大崎の3ヶ村にまたがる海岸の先は突き出た洲であった。
洲の面積は約千ヘクタールと広大であり、この土地を開拓すれば広々とした美しい田を得られることは、関心のある者なら以前より承知していた。
しかし、この地域は西風が猛烈で荒れ狂う大波が打ち寄せて、海岸が洗い流されることが度々あるので、ここに堤防を造ることは容易ではない。
そのため、誰一人としてこの地区で干拓を計画する者も無く、長い間誰にも手が付けられなかった。
明治20年の頃、当時の愛知県知事であった勝間田稔氏は、同県人である山口県人の毛利祥久氏と同県出身の名のある人に、この地域の干拓がいかに有効かを話し開発を勧めた。
2人は大いに賛成し、遂に毛利祥久(もうりよしひさ)氏の名義で愛知県渥美郡牟呂、大崎、磯邊の3ヶ村の地先の約千ヘクタールの海岸を開拓する新田開墾の事業申請を明治20年10月内務省に出願し、同年12月に許可された。