『家憲第一』は、公益を先にして私利は後にすべしと。
深く考えると、氏の開墾事業を思うと、元来氏は壮年の頃より新田を開拓する志があり、海浜の新田を拓くことは国土の繁栄を広げる仕事であると信じていた。
そのため諸国の海浜を廻り、新田が開けている地を視て、心を開拓に傾けることは長かった。
その頃、前記の牟呂の海浜で、大いに新田開拓の計画を進める人があり、県庁も後押しと保護していた。
新田の築造が完成を迎える頃、突然大津波のために堤防が決壊し、その後維持の方法も確立したが、再三の天災に新田は元の蒼い海原に戻り、住民は離散と混沌の底に陥り、対処する方法も無いまま荒廃したので、これを転売することに決意した。
ここで氏は、この全部を購入し、自己の損失を恐れず、多くの人の非難を退け、復旧工事に着手して、二年余を費やし、強固な長堤を造り完成させた。
その後、伊勢神宮を勸請し、移民の家屋を補修し、また学校を新築し、教院を開き、かつ養魚池を作る等、設備のことごとくを完整して、以来年々豊稔を迎え、住民も安堵して暮らせるようになった。
氏が公益的観念の事例は、このことからも全容を知ることができる。
明治三十六年の第五回内国勧業博覧会は、氏が開拓した事業の功績をたたえて、名誉銀杯を賜ったと聞いている。