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前書き
誰の助けも借りず身を起こし、殖産興業に没頭し、経営以来三十年を待たず、新田開墾に実績を残し、関西地方の大事業家として、名古屋地方実業界の重鎮として、明治銀行を始め農工銀行、その他の会社や銀行の重役となった。
名声を欲しいままにしている神野金之助氏は、「自己の成功と社会で重要なことは、常々何度も子孫を戒め、その去就を導く」これが同家の不文家憲であると。
当代中興の偉業
著者は同家の家憲を説くに先立ち、中興の偉業をした当代主が、幾多の難関を排除して、奮闘経営する事歴を紹介する必要がある。
なぜならば、氏の半生の歴史は実に活きる学問であり教訓であるので、これをもって、その家憲の由来をうかがえば、その家風の一部分を感じられるはずである。
氏は嘉永二年に、愛知県海西郡江西村(現在の八開村)に生まれ、父の名は金平で代々農業を営み、当地方の旧家であった。
氏はその末子で、長男が家を継ぎ、次男は名古屋市鉄砲町にある小間物唐物商の紅葉屋の重助の養子となる。
しかし長男は幼くして亡くなり家を見る者はなく、氏がその後を受けて農業に従事していた。
しばらくすると次男も亡くなったため紅葉屋は廃絶に追い込まれたが、氏は窮地に向かう心を奮立たせた。 そして一大決心をし七十五戸の村民を招き、次のように告げた。
「余はゆえあって先祖代々の地を去り名古屋におもむく。
余の家が持っている田畑全ては多いとは言えないが、この村の共有財産として諸氏に進呈する。
もし不幸にして余の志が成就できず、途中で失敗したら、この田畑によって余の先祖の霊を祭って欲しい」と、自家の不動産全ての四町余歩を提供した。
そして誰の助けも無い状況で紅葉屋の店舗に入り、両家の主人を兼ねることになったのが、明治十一年の頃であった。
氏は次男死後の店務を整理し、古参店員に唐物商を営業させ、自らは殖産興業を計画して身を立てようとしたが、当時資本となる貯えはなく、志は大きかったがて財ず伴なわなかった。
そこで、氏は三重岐阜両県下を巡歴し、商才機智を縦横に発揮し、地所の売買で少なくない利益を確保した。
明治十三年の頃、西南戦役の後に起きた、紙幣の乱発は物価の下落となり、地所などは、地価に満たない価格で売買される状況に陥った。
しかし、氏は早晩回復する時が来ると予想し、種々苦心の末、三重県下に於いて一時は三千余町歩の田地を買収し、数年たたずして巨利を獲得した。
氏は、また一方で同県の一志郡地方の開墾を企画し、七十余ヶ村に亘る不毛の地を開拓し、明治十五年同県鈴鹿郡椿村を開墾し、耕地の転売によって、ようやくその富を増殖した。
しかし、氏の開墾事業中で特筆するのは、明治二十六年、三河国渥美郡牟呂の海浜に於いて、千百余町の新田を開墾し、神野新田と称して小作に貸し、年々多額の収穫を獲得していることである。
氏の経営に係る事業は多方面に亘り、三重県多喜郡宮川に千余町歩の山林を買収して、目下植林経営に熱中し、また昔であるが明治十三年の頃、前記の椿村に二十棟の養蚕場を設けて、原種二百枚を飼養し、伊勢山田に製糸場を建て、なお牧場も営んでいたが、明治二十年にこれを他に譲り、今や専門として開墾植林事業に従事している。