また有名な大規模の開墾地である。
そもそもこの神野新田なるものは最初より氏の計画ではなく、かの勝俣稔氏が愛知県令の当時、山口県の毛利氏を説いて着手せしめたもので、毛利氏を初め、一千百町歩の新田開墾を内務省に出願し、幾多の天災と戦って、二十五年に至りようやく二百五十町歩程の植付をするに至ったその年その秋、またもや暴風のために築堤破壊され、実れる稲は海水にさらされて、見る影もなき元の荒蕪地に化してしまい、流石の毛利氏も遂に望みを絶った。
ここにおいて神野氏は翌二十六年、この権利を買収して事業を継続することになった。
そのころ都合が良いことに、一時天下に名を馳せた人造石の服部長七君が人造石築堤法を発明して、各所の港湾築堤に成功した。
すなわちこの服部の人造石をもって築堤したところ見事に成功して、以来渥美