福島献吉

東三河産業功労者伝より

一、はしがき

 江戸時代、吉田(豊橋)附近における新田開発の数は相当に多かった。その開発年時の明らかなもののみでも左のように十二を数えるのであるが、その他のものに至っては、更に多かった事は言うまでもない。

 左のうち、開発年次の最も新しい富久縞新田は、吉田藩士の福島献吉によるものであった。


そして、この新田が他に比べて異なっている点は、藩のための開発でありながら、その計画ならびに費用は全て発起人の福島の手に委ねられたと言う点にある。

 なぜこのような条件になったかかは不明であるが、かかる大規模な事業を独力で目論見、そして着工した彼の気迫は正に立派と言えるものであった。


二、略歴

 福島献吉の業績は明らかではない。ただ富士見新田(後に富久縞、西明治、東明治の各新田となる)築造者としてのみ知られるのであるが、その点についても大いに不明瞭である。したがって、ここでは富士見新田築造に関する部分のみを取り上げて記述する。

 次に福島の略歴の判明している所を次に記述する。

文化十年正月  年末出精相勤候に付只今迄の通にて御使番格迎付られ廿石御加増百石に成下さる。(出世して年俸が、20石/年増えて100石/年・・・結構高給取りである)

   文政三年十月  このたび牟呂沖新開惣(総)奉行迎付らる。

   文政四年十月  癪(胸や腹が急に 痙攣 けいれん を起こして痛むことを)が発症し、ひどく苦しむ

   文政四年十月  拾石御加増百拾石に成下さる。(10石/年増えて110石/年)

   文政十一年七月 御奏者番格御勝手懸迎付らる。(最上位の財務・会計の役職を任命される)

   天保二年六月  御用人並迎付られ、二十石御加増成下され、勤向是迄の通。(藩の重臣クラスに

           任命され120石/年となったが、仕事は今まで通り)  

   同 二年十月  御勝手懸御免(役職を解かれる)、御用役是迄の通。

   天保五年正月  高百三十石、側向用役表女中懸り、格式用人並。(偉くなった)

   天保七年三月  京都にて亡くなる、享年六十九才。


三、富士見新田 

(イ)計画

 当時江戸詰であった福島献吉は、文政二年七月、藩主松平信順に随行して吉田に来た。この時既に新田開発の大体の成案を得ていた彼は、翌三年五月には新田開発目論見書を主君松平信順に奉って許可を得、同年九月、主君信順が再び参府の途に上がるも彼は吉田に留まり、自分の養子、留吉の実家柴田猪助の家に住み、新田開発のために全力を注ぐことになった。


もちろん吉田藩も献吉一人に任せず、相当の援助をすることになったが、これに要する資金は全部献吉自ら調達することを条件として許可を受けた関係上、献吉の責任は誠に大きいものであった。

 この時の献吉の計画は、当時豊川河口の左岸において、茅野新田、青竹新田を経て牟呂村に亘る海岸一帯を長方形に約百五十町歩を埋め立て、それを二つ川口より、西、中、東の三つに区割し、その内の東および西の二区は田畑、中の場は塩浜として、ここより取れる塩の売り上げにより、この開発に要する費用を捻出するというのである。

 文政三年十月、献吉は牟呂沖新開惣奉行を迎付られ、その下に松本茂助以下七名が役員に任命されて、いよいよ新田開発に着手したのであった。


(ロ)実施

 そうして領内各地より徴用した人足により、文政三年十月二十七日より、いよいよ工事を開始した。献吉は連日出張して監督し、一方費用調達にも奔走するなど、なかなかの努力の成果か、その結果は相当な進捗があり、翌文政四年二月九日には澪止めを実施するまでに至った。もちろんこの間には堤が切れ、あるいは水門が危うくなるなど様々の事故が起こったが、それを何とか切り抜けてきた。しかしここまで来て非常に困ったことは、予想外に費用がかかって、献吉が準備期に自ら諸方を駆け回って集め得た資金が早くも不足してきたことであった。近く竣工を控えてこの困難にであった献吉は、必死になって努力したが、ついに及ばず、やむを得ず江戸表にいる主君に助けを求めたのであった。


 これについて同年三月二十六日に江戸表の重役から、しかるべく援助する旨の返事があった。これで献吉もひとまず安心はしたものの、やはり直ちに御援助と言う訳でもなかったとみえ、文政四年四月十八日、工事が竣工する際に至るも、まだ支払うべき金がなく、苦しい立場に陥っていた。献吉の養子留吉の親であり、かつ事業関係者でもあった柴田猪助は、その日記に「土功終。クロクワヤカマシ」と書いている。もちろん献吉は堤防が充分にできる以前から、既に牟呂、青竹あたりの塩師(塩作りの人)に塩を作らせ、これを売って幾分なりともお金を得るひとを試みていたのであるが、期待に到底及ばない金額であった。

 それでもあれこれする内に、八月二十四日に至り、ようやく工事はひとまず終了することができた。これからは工事に費やした金の整理と製塩とに力を尽くすこととなったのである。

 しかし十月頃からひどく癪を病み、新発田の家に住んで病を養う身となったが、彼の事業に対する焦りといら立ちは、なかなか静養を許さなかった。加えてしばしば藩士から漏れる彼に対する非難むの声は、更に彼をいらだたせたのである。

 この頃献吉が苦心した金策の一に、江州金談というものがあった。その内容はと言うと、藩主松平伊豆守領分の内、江州在方二十三ヶ村中より、その高おおよそ六千石を引き当てに五千両、同じく大津御藏米五千石を引き当てに五千両、合計一万両を大阪商人から借り入れようとするものであって、なおこれに対する利息は年八朱、返済は十ヶ年賦とし、この大金の調達ができた暁には、口入人である江州の米次郎という者へ口入料として金三百五十両を与える約束であった。

 この一万両借用の相談は、文政四年十一月廿九日に定まり、着々話を進めていった。このようなことは藩としても相当な大事であって、富士見新田のため、しいては献吉のために、よくも決意したかに思われるが、その実必ずしも新田の費用としてのみでなく、ひっ迫した藩の財政補填に用いる心つもりであったことは言うまでもなかった。

 このことのため、献吉は十月からの癪がまだ完全に治ってないにもかかわらず、病を押して奔走、外出の度に再発して、倒れることが何度もあったが、一万両借用の話は十二月十七日に至って遂に破談と決定した。十分に成功を信じていただけに、彼の失望落胆は想像に余りあるものであった。

 文政五年五月、彼の計算したところによると、工事着手以来文政四年末までに要した総入費は次のようであった。

   一、金三千七百六十二両一分二朱 新開惣入費

   一、金三百五両二朱       借金利息

   一、金二百四十両        塩浜入用

   一、金二百三十二両二朱     所々江の贈物、人夫昼食代その他

    合計四千五百三十九両二分二朱

 上記に対して借入金は、前芝の六蔵、篠塚村の只右衛門、青竹新田千藏、花井寺など二十数件より四千百余両、これに藩主よりの五百両を加えて合計四千六百一両二分であった。すなわち献吉が東奔西走して調達に腐心していたにもかかわらず、この時既に百両の余裕すらないのであった。 

 次に製塩に付いてはいかがかと言うと、文政四年八月末、工事が終わった後、既に本格的播州赤穂、江戸行徳、西三河大浜の三ヶ所より塩師を迎えて製塩に力を注ぐ一方、その売掛にも各方面と折衝していたたが、これについても中々思い通りにはならないのであった。しかし塩浜に関する献吉の抱負は次のようであった。

 まず本格的に潮の生産を成し得るのを文政五年四月以後とし、最初に金五千両を年七朱にて借り入れて基礎とする。しかしこの年の塩野生産高を四百両とみて、これを差し引きして金千百六十両の借金とする。二年目は前年よりの借金元利合計千二百四十一両となるが、この年からは完全に製塩ができるので、この収入六百両、差し引きして金六百四十一両の借りとなる。このようにして潮の生産を毎年六百両と計算し、順次差し引いて行けば、四年目には早くも借用金を全部返しても五百両の余裕の余裕ができ、更に十三年目に至れば塩田よりの収入八千百二十両となり東西の間(田畑)の分の借金を元利全部返してもなお多大な収益があることになると言うことである。 

 以上述べたように、献吉の腹案によれば、この新田開発に付いては十分成算はあつたのであるが、種々な点で食い違いが生じた。金の借り入れ、塩の生産高、その売りさばきについても、ことごとく予想を裏切り、文政五年七月にはついに西の一割を出資者前芝村加藤六蔵などに譲り渡さなくてはならないことになった。更に翌六年末には、またまた東の場売り払いの内談が出て、七年四月に至って尾張国知多郡内藤家に売却したのであった。すなわち藩においては事既に成らずと観念し、西中東の三場所のうち、利益が大きいと思われる中の場のみを残して製塩事業を行い、東西二場所は売り払って借財整理をしようとした。しかし前述の塩浜については藩より上級役人を選任に命じたので、献吉の一身を賭けての一大事業は、全く彼の手を離れて藩に移ってしまった。献吉の心中いかばかりか、察するに余りあると言うべきであった。


(ハ)終末

献吉の手を離れた塩浜(中の場、今の明治新田北部)はどうなったかと言うと、これまた予想通りの成績を挙げることはできず、五年後の文政十二年末には売却の話が出て、翌十三年春ついに大木村惣十などに売り渡してしまったのである。こうして富士見新田は全部民間に移ったのであるが、新田開発に要したる借金の整理はなかなか進行せず、天保二年末に至って漸く完済することができたのである。


四、富士見新田以降

 前述の富士見新田の後始末がようやく終わって二年経過した天保四年の春、幕府が牟呂沖に、大津島を中心とする大新田を開くとのうわさが伝わった。

 当時吉田藩主松平信順は大阪城代として彼の地にあったが、このような噂を聞くと前の苦い経験にはかかわらず、自己の領地への体面上から、この幕府の計画に対抗して再び新田開発を試みようとして、四月、既に軽々を有する福島献吉を起用して吉田に向かわせた。これについては資金の関係から藩江戸詰役人より強い反対があったが、押し切って決行することになつたのである。この度のは従来の富士見新田の外郭を大きく埋め立て、総面積九百二十町歩余を開発する目算であった。加えてこの地域に対する灌漑用を得るため、八名郡の一鍬田より吉田龍拈寺(りゅうねんじ)間および豊川沿岸を測量、水位を十分に研究して水道も開墾しようとしたのである。

 以上によれば、この度の新田は現在の神野新田に相当し、しかも水道は牟呂用水に似たものであったことが想像される。

 そうして大体の測量を終えた献吉は同年十二月いったん大阪に帰還、詳細を藩主に報告した後、天保五年一月には江戸に出向いて幕府の許可を得ようとした。このことは実に難問題であったことは言うまでもない。いかに自領内とはいえ既に幕府自身の計画があるところへ、ほとんど同じ計画を申し出たのであるから容易に許可が得られるはずはなく、献吉の猛運動も何ら効果をもたらされなかった。

 これより先、幕府の大目論見が民間に伝わると物情騒然のあり様となり、埋立によって直接被害を受ける村民の動揺はくつがえることはなかった。種々協議の末、ついに天保五年六月に至り、関係十五ヶ村は連署をもって開発反対を吉田藩主に直訴したのである。しかも吉田藩は前述の如く幕府に対し開発許可の運動中と言う皮肉な立場にあった。そうしてこの反対運動が功を奏したか、あるいは他の理由か、とにかく翌天保六年正月、幕府は正式に新開停止の旨を村々に通達した。そして吉田藩の計画も自然立ち消えとならざるを得なかったことは当然であった。従って江戸において活躍していた献吉もまたお役御免となったわけである。


五、むすび

 かくて献吉が精根を傾けた新田開拓事業も、こと全く意に反し期待した目的を遂げ得ずして、天保七年三月六十九才をもって亡くなったのであるが、その後十一年を経た弘化四年、富士見新田はようやく一応の完成となり、名称を富久縞新田と改めたのである。その後も災害が絶えず、ついに荒廃するかと思われたが、かろうじて維持され、明治六年に尾張の東松松蔵などの手に渡り、更に明治十二年に小作各人に売り渡して現在(富久縞町の大部分および明治新田)に至ったのであった。


  この事業は神野新田の先駆として特筆されるべきのものであるが、その当面の関係者たる福島献吉の後絶え、かつその墓所すら定かでないのは誠に遺憾なことである。したがって現存する富久縞新田記念碑にもわずかに関係者として名前が書かれているだけで、その事業には全く触れていない。しかし不幸中の幸いとも言うべきは、献吉の養子留吉の実家柴田家は、今に古文書を有すること甚だ多く、その中にはこの新田に関することも少なくない。今これによってわずかに献吉の事業の概略を知ることができ、ここに一分を草することができたのである。最後に柴田氏のご厚意に感謝して筆を置きます。


引用元

 タイトル  開校廿周年記念東三河産業功労者伝  神野新田に関する記事  308~312頁

 著者    豊橋市立商業学校           『福島献吉(ふくしまけんきち)』

 出版者   豊橋市立商業学校          書籍へのリンク

 出版年月日 昭和18(1943年)           https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1705146/36


 ・富士見新田と詞てのは富士山が見える場所だったからと推測する

 ・福島献吉は富士見新田を作る前は吉田藩の江戸詰であり、富士山を意識していたと推測する

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