東三河産業功労者伝より
一、家系
彼の家は山口の毛利家の支流であって、歴代右田(山口県佐波郡)の土地千七百石を領地とし、右田の毛利と呼ばれ、山口の毛利家の重臣を勤めて来た。 祥久の父の元亮は老年になった当時仕事が多忙で、その責任に耐えられなくなり、大島郡(山口県)の村上家より藤内を迎へて養子とし、祥久の姉と夫婦とし家督を譲った。 藤内は嘉永2年6月、村上惟庸の長男として生れ、初めは常太郎、後に内匠藤内と称した。 慶應2年正月に毛利家の養子となったのである。 早くから皇室回復の志をいだき、いちずに教育経済に力をそそぎに留めて政治的な功績を挙げた。
慶應2年佐波郡諸兵の総督となって海からの攻撃から防衛することに当たり、同6月に幕府の兵が防長四境に追るや、石州國(石見地方)の總督として奮戦した。 翌3年11月、朝廷の命によって入京し九門(京都御苑)の警守を拝命した。 明治元年正月に鳥羽・伏見で幕府の兵を破り、同5月、越後出兵の総督を命ぜられてこれにおもむき長岡・会津攻撃に従った。翌3年正月諸隊の暴動を鎮めて、4月上阪してフランス式銃の取り扱いを修得し、同10月にはフランスに留学した。 そして同7年8月に帰国すると直ちに、旧領地に周陽學舎を創立して子弟の教育を図った。 また第百十國立銀行を設立して頭取となったが、同18年5月23日に病没した。 明治30年に父の遺功により家督相続した祥久(37才)に男爵を授けられ、同35年11月には正四位を追贈せられた。 祥久は萬延元年3月6日誕生し、明治18年、上述の先代藤内死去後、同年6月12日家督相続をした。 そしてこの年より毛利新田(後の神野新田)の開発に努力し、また日露戦争に際しては、多額の軍費を献納した事により金盃を下賜された。 晩年は悠々自適、花卉園藝を楽しんだが、昭和16年12月9日、82才の老齢で逝去した。
二、毛利新田及牟呂用水開發事業
三河國渥美郡牟呂吉田村大字牟呂、高師村大字磯邊、同大崎(今の豊橋市・牟呂・磯邊・大崎町)の地先は、海面に突出した洲があった。 此の広々として開けた洲に着目し、ここを開墾して一大の新田とすれば、国家の新しい富の源を作り出せると考えた人々は、これまでも皆無ではなかった。 しかしこの辺は西北風が猛烈で、時には荒れ狂う大波が海岸を洗うこともあり、これに対応して工事を行うことは容易ではない大事業なので、無駄に手をこまねくだけであった。 既に文政年中、吉田藩士の福島献吉が富久縞新田を開設したが、その工事の困難さは実に言語に絶するものがあった。 しかし明治の新政府が殖産興業を奨励した結果、地方に於て放棄してあった遺利を隈なく突撃活用するという機運が次第に濃厚となり、各地に新田開発の計画が行われて来た。 しかし是等の多くは還禄士族の生活の道を得させるためにしたので、全く素人の寄合であったところから、せっかく政府が国庫から多額の貸下金を下げ渡しにもかかわらず、失敗することが多かった。 愛知県におては、明治12~13年頃、土木課の岩本賞壽(山口縣人)が豊川流域の道路・橋梁等を実地調査した際、牟呂・磯邊の地先の寄洲(自然にできた洲)を発見し、ここが開墾に有利なことを認めた。 同18年、偶然同郷の先輩である勝間田稔が愛知県令(1886年に知事に改称)として就任すると直ちに、岩本はこの寄洲の事を県令に語った。 當時、毛利祥久が、士族の還禄金で設立した第百十國銀行(通称赤間関銀行)の頭取?に選ばれ、巨萬の資金を持ちながらも投資する事業が無いのに苦しんで居た際であったので、勝間田は岩本の説を毛利に伝え、かつこれをしきりに勧めるめ、もし毛利が起業に応じるならば、県としては事業に応じた援助をすると勧誘した。 それで同20年に毛利は技師を同伴し、当地に来って潮汐の干満、高低等実地の測量踏査を遂げ、かつ用水路の設備に闘しては豊川の上流に在る一鎌田・賀茂・金澤・八名井等、関係村落の水路施工とも協定して、いよいよ寄洲の開墾に着手することとなった。 毛利祥久の新田開墾工事は勝間田の特別なる援助と、銀行資本金60萬圓(現在なら60億?)といふ豊富なる巨費を持ち、1,100町歩の海面埋立て、竣工後は50年間の税金を免除する土地とする許可を得て、明治21年4月15日、いよいよ起工式を挙げた。 そして工事は着々進められて翌年7月5日には澪留工事を施して、一同安堵していたが、波涛のためにただちに2ヶ所を破壊させられたので、直に第2次の補修工事を加え、竣成直前の同年9月14日に未曾有 の大海嘯(津波)に襲われて、毛利新田は原形を残さないほどに洗ひ去られ、工夫も激浪にさらわれて行方不明になった者は数十名に至った。 しかし毛利はなおこれにも屈せず、一層の奮励をもて再度工事に着手し、日夜を問わず全力を挙げて工を急いだので、同年11月には第3次の澪留工事を完成し、引続き堤防の築立に取りかかった。 もう季節は冬が近づいていて西風がやむ時がなく、工事は遅々として捗取らぬうちに、また同月26日の波浪に澪留の幾部分を破壊されてしまった。 このように新田の築堤工事はしばしば破壊の被害に会い、修築を加えることが前後3回に及んだが、彼はこれに屈せず一同を督励して、第4回の澪留を終了し、翌23年5月には、とても困難を極めた築堤も全て竣功するに至った。 築堤の総延長は6,729間、これに要した経費は40萬円余に達した、これをもって総面積1,049町3反7畝歩(この内、104町3段7畝歩を道路、用水路堤、汐除に据置いた)の新開地を獲得したのであった。 同年直に数町歩の地に稲の試作を行い、50ヶ年の免祖の指令を得た。 一方用水路に就いては初め三河國八名郡賀茂・金澤・八名井の3ヶ村が地内にて豊川筋に井堰を設け、同川堤防に樋門を造って用水路工事に着手したが、不幸にして工費が支払えず、それに加え、水路が再三破壊して最初の目的を達することが出来なかった。 勝間田は祥久に語るに、この破壊水路を利用し牟呂村に延長すれば彼が新に開墾の土地に給水することが出来ると進言した。 毛利は直に 同意し、一鍬田村より牟呂村に至る用水路開墾の件が明治20年11月26日に許可された。 しかし工事中の間も種々の反対の争議が行なわれたが、1つづ円満な示談を図って工事を急ぎ、竣工し、これを牟呂用水と称した。 前述のように新田の築堤工事は完成し、様々の計画を進めつつあったが、未だ 完成を見るには時間が必要だった。 そんな中、翌24年10月28日になり、かの有名な濃尾大震災が突然起り、新田の堤防を破壊し、地磐の亀裂、陥落、海潮の浸入し氾濫となった。 事もあろうに25年9月4日の大暴風雨には、再度海潮が襲来し、130餘の人家はたちまち押流され多数の死傷者が出てしまい、辛苦経営でようやく一大新田を形成した土地は、再び以前の鹹鹵地(カンロチ:塩分を含んで作物ができない土地)に還されたのであった。 彼は再三再四の天災に害され、莫大な資本を消費し、遂に工事を中止することになった。 その後、明治26年に神野金之助が新田開墾の有利なことに着目し、彼と折衝の結果、同年4月15日に41,000円をもって新田全部と用水路の全部とが神野の所有となった。 以後神野の手により工事が進められ、現在の盛大な神野新田が見られるようになった。こ のようにして毛利祥久はその事業の成功を見ることなく終ったが、現在見るような黄金の波をそよがせている一大新田、一大用水の基礎を作った功績は、実に偉大であると云うべきである。
引用元
タイトル 開校廿周年記念東三河産業功労者伝 神野新田に関する記事 308~312頁
著者 豊橋市立商業学校 『毛利祥久(もうりよしひさ)』
出版者 豊橋市立商業学校 書籍へのリンク
出版年月日 昭和18(1943年) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1705146/178?viewMode=