▶ 井上馨による調停
・明治5年以降、西の法主が名称を分かり易く「東派」「西派」でと持ち掛け、東が承諾したが蓋を開け
たら東は素直に「東派」、西は「本願寺派」、西本願寺のNo2に騙された
・東は後に「大谷派」として届け直すが、紛糾が強まったので、井上馨が乗り出した
・下は最初だけを貼り付けているので、リンクから必要部を見て下さい
▶ 宗派名の変遷と関連事項
・江戸時代から「浄土真宗」や「真宗」と自称していたが、幕府は「一向宗」を公式とした
・翌寛政元年(1789年)の「宗名論争」より「一向宗」の呼称を拒否して門徒宗などの言い換えを行った
・明治政府になり「浄土真宗」を申し入れるが、浄土宗の反撃にあい「真宗」なら認めることとなった
・明治5年頃に上記のよう、東本願寺が「東派」、西本願寺が「本願寺派」で紛糾する
(「東派」、「本願寺派」の状態は明治11年頃まで続いたよう)
・明治5年3月13日、一向宗の名を廃し、「真宗」宗名公許さる
・明治5年9月、苗字を「大谷」とする(明治3年9月19日に平民苗字許可令)
・明治14年6月25日、東本願寺派を「大谷派」、西本願寺派を「本願寺派」と改称
・明治15年3月、両本願寺、寺号混同するを以て、大谷派本願寺を東本願寺と称す
・西本願寺は第二次大戦後に浄土を付加して「浄土真宗本願寺派」と正式に名乗るようになった
・現在は西本願寺は「浄土真宗本願寺派」、東本願寺は「真宗大谷派」
▶ 東派の証拠1
▶ 東派の証拠2
・ここをクリックして、「東派」で検索すると同時代の書籍が多く見られます
・下は検索した一例で「真宗東派」は一般的になっていたようだが、古書以外では出てこない
・1969年からのお東騒動後に分裂した下4派にある「真宗東派」とは関係ない
(真宗大谷派、浄土真宗東本願寺派、浄土真宗大谷本願寺派、真宗東派)