つるレコード

▶ 新譜目次(新作紹介


▶ ツルレコードの紹介記事

 太平洋の向こうから到来した電気吹込みのシステムを完備しその成功を最初に収めたのが名古屋にあったツルレコードだった。ツルレコードは、大正14年、名古屋大曾根に株式会社アサヒ蓄音器商会として設立した。大和蓄音器を買収し資本金は25万円をもって成立したのである。大和蓄音器は大正12年12月成立のレコード会社で「匿名組合大和蓄音器商会」と言った。第1回新譜発売には鳥取春陽の《籠の鳥》(B面が《夕陽は落る》)が発売されている。大和蓄音器は大正14年7月に開局予定だった名古屋放送局との結び付きが強く、同社の設立者3人ののなかの1人、神野金之助が同放送局の理事長に就任し、開局前に大正14年6月、義兄の神野三郎が社長となり、ツルレコード(アサヒ蓄音器商会)が大和蓄音器を継承し、浪曲、落語、端唄・小唄などのレコードを販売したのである。商標には朝日を浴びて飛ぶ鶴が描かれていた。ツルレコードが昭和2年7月新譜で発売したレコードは国産初の電気吹込みレコードだった。これはビクター、コロムビアに先駆けてのことであった。当時、関西・中京に点在していたマイナーレコード会社は外資系ビクター、英米コロムビアと資本提携した日本蓄音器商会に対抗し孤軍奮闘していた。その中心が鳥取春陽と黒田進だった。

 黒田は、滝廉太郎の《荒城の月》《秋の月》、また《麦打の唄》《ステンカラズィン》などの内外の歌曲と当時流行のジャズ・ソングの《アラビヤの唄》《青空》を吹込んだ。昭和モダンの空間にフォックス・トロットの本家本元外国のジャズ・ソングも巷に流れ始めた。ジャズ・ソングは舶来のポピュラーソングの総称でタンゴ、ルンバ、シャンソンなど舶来なら何でもジャズ・ソングと言った。昭和3年10月新譜でビクターから、《青空》(堀内敬三・訳詞/ドナルドソン・作曲)《アラビアの唄》(堀内敬三・訳詞/フィッシャー・作曲)が発売され、ジャズのテンポがダンスホール、カフェーで流行しはじめていた。歌は二村定一、伴奏は井田一郎率いる、日本ビクタージャズ・バンド。メンバーは、井田一郎(バンジョー)高見友祥(サックス)橘川正(トランペット)河野旬一(トロンボーン)関真次(ピアノ)泉君男(ドラムス)。翌11月コロムビアからは《あほ空》(天野喜久代・共演)《アラビヤの唄》(すでに《あほ空》とカップリングで5月に日本蓄音器商会の鷲印ニッポノホンから発売)が《森の鍛冶屋》(ミカエリス・作曲)《ヴァレチア(ヴァレンシア)》(バディラ・作曲)とともに発売された。

 二村定一のビクター吹込みのジャズ・ソングは、ワルツのリズムにスティールギターが甘い調べを歌う《ハワイの唄》(堀内敬三・訳詞/メルトン・N・ボリス/ポール・コーベル・作曲)、昭和の初期ダンスホールで大流行した《アマング・マイ・スーヴェニア》(深沢五郎・訳詞/ホラティオ・ニコルス・作曲)などがあり、好評だった。前者の《ハワイの唄》はカアイがハワイから持ってきたと言われている。

 二村の歌のフレーズの切れ目のところにはスティールギターの甘い調べが絶妙のタイミングで入る。服部は二村の甘い歌声を引き立てていると思った。後者の《アマング・マイ・スーヴェニア》は、1927年、ベン・セルヴィン楽団(ダンス・バンド)のレコードがヒットし日本に直ぐに輸入された。ダンス・ホールでも流行した。二村盤のレコードでは、アーネスト・カアイ・ジャズ・バンドの演奏のテンポは速く、スティールギターが軽妙な音を奏でている。

 黒田は二村定一を意識していた。新譜発売は昭和4年3月。演奏はアサヒジャズバンドだった。二村定一は浅草オペラ出身とはいえ、テナーのスター歌手だったわけではない。音楽学校を出ていないその二村がジャズ・ソングで人気を博すことに対して、黒田には上野出身の自負がもたげていた。演奏のアサヒジャズバンドは井田一郎らのビクター盤の編曲を模倣しているが、演奏レベルはかなり見劣りした。黒田も二村定一のジャズヴォーカルによるビクター、ニッポノホン盤の演奏を聴いていたので、アサヒジャズバンドの演奏には不満だった。黒田は、上野中退とはいえ、梁田貞の弟子としての自負があり、浅草で高田雅夫に歌を習い自己流の二村には歌唱力においては負ける気がしなかった。上野のプライドをかけても負けられなかったのだ。だが、アサヒジャズバンドの演奏がこれでは完全に二村に差をつけられてしまうのだ。

 黒田のジャズ・ソングが関西、中部地方のカフェー街に流れ出した頃、東京の音楽空間のレベルは彼の予想を上回るほどの高さをしめしていた。レコード会社に吹込みにくる楽士やダンスホールのバンドひとつをとっても、その演奏能力は、関西を大きく引き放していた。とくに大阪のダンスホールが昭和2年12月いっぱいで全面禁止されたので、楽士たちの東上が大きかったといえる。レコード会社も腕利きのバンドを集めオーケストラを編成した。井田一郎率いる「日本ビクター・ジャズ・バンド」、「アーネスト・カアイ・ジャズ・バンド」、「ラッカンサン・ジャズ・バンド」紙恭輔の渡米後ビクターから、コロムビアに転じた井田一郎が指揮する「コロムビアジャズバンド」などがレコード吹込みに拍車をかけていた。当然このような情報は、関西を中心に活躍する黒田や春陽に耳目にも届いていた。

 昭和4年9月新譜で《思出》(川畑誠二・作詞/ニコル・作曲)が黒田の歌唱で発売されたが、演奏のアサヒジャズバンドの腕も大阪から東京へ東上するジャズ演奏家が加わることによってかなり水準をあげていた。ようやく、アサヒジャズバンドの演奏レベルも完全ではないが大手メジャーにある程度は追いついてきたのである。 黒田は、東京へ向かうジャズ演奏家を見送りながら、自分もいよいよ外資のメジャーレーベルに進出する気になった。黒田の盟友鳥取春陽も、本格的な東京への進出の時期を感じていたのである。

     著者 菊池清麿 明治大学政経学部卒 同大学院修了



▶ コードの画像を綺麗にしてみた