第38章 牟呂用水流材の便

 牟呂用水は一鍬田地内の豊川分水の所より牟呂村の南端で用水の捨杁口より柳生川口に注ぐまでの延長おおよそ6里余あり、初め毛利氏のこの用水開発に着手した時は地方の人民は喜こばず、争って苦情を提出し、一時は大変もめごとが大きくなったが、今やその局面を一変し該用水路は地方の幾多の利益に貢献するようになり、遂に山方の数ヶ村の流材用にまで利用されるようになった。

 三河国の南北設楽両郡の山方の数ヶ村より産出する重要物産の1つである薪(松材)は従来豊川筋の一鍬田まで流下し、同所より川船に積載して豊橋町、及び下地町等へ向けて運送する方法であったが何分積載量が極めて少量の軽船であったことと特に船数に限があったため流材を一斉に運送する方法がなかった。

 そのため、しかたなく一旦一鍬田に陸揚げし、都合のつく日時まで待ってから、ようやく川舟に積載する等、重複煩雑な手数を必要としたので輸送が渋滞する不具合だけではなく運賃が自から高まる不利益があった。

 特に何日もの長雨で水嵩が高い時は流材が豊川筋に散乱漂流して収容が非常に難しく、その損害は決して少なくなかった。

 著名な物産なのに販路を広げる方法が無く、これを挽回する計画として、山方村落の材木商同盟が団結し総代をもって該用水路を利用し薪材を流下させる方法を当方に願い出た。

 この流材の事は私人営業に関する利便とはいえ三河の重要物産の発展を図るこに有益なので速かに承諾した。

直ちに牟呂用水関係村落の八名郡長部村大字八名井、及び加茂、金澤の三村に対し本件交渉熟議の末、約定書を交換し流材の員数に応じて材木商団体より相当の料金を取立てて水路修繕費に充てる事等を契約し、本件認可の結果をその筋に出願して、明治28年9月に願意が聞届けられ関係者は大いに満足した。