緒言
私は三十歳を過ぎた頃より、新田開拓に大いに興味を持った。
海浜の新田開拓は有用な土地が増えるため、国がより豊かになる。
開拓の知識を深めるために、私は全国の海岸を巡回して、新田開拓の実情を多く視察してきた。
そんな中、明治20年に牟呂の海岸で大規模な新田開発の計画を進める人(毛利氏)がいた。
愛知県庁の絶大な協力もあり、堅実に着々と準備をし、工事を進めて行った。
堤防を築き用水を引き、工事も順調で完成のめどが着いた明治23年9月に、大津波に襲われ堤防が決壊し、その2ケ月後の11月にも非常に激しい暴風による波で、またもや堤防が破られた。
その後も資金を投入して一生懸命に堤防維持の方策を進めたが、24年10月に濃尾地震に遭い、翌年25年9月の暴風雨にも襲われ、完成近くの新田は完全に破壊され元の海に戻り、移民してきた住民は離散したり、意欲を完全に無くしていた。
毛利氏は再三再四の災害で、ついに開拓の継続を断念し、26年春に荒廃した新田の開拓権利を転売する決意をした。
この転売を私に紹介する人があり熟考した結果、開拓に関する全てを購入することにした。
しかし、堤防工事は以前を失敗を教訓として討議や研究、また色々工事の手法等の打ち合わせを繰り返した。
そんな中、私は自信を持って服部長七氏が発明した人造石を工事に採用することを決定した。
26年6月より人夫を配布し、土砂の採収、捨石の配置、用水に関すること、樋門等の人造石に関する工務を服部氏に任せた。
服部氏は日夜勉強に励んで着々と仕事を進め、計画通りの好結果をもたらせた。
27年には堤防は数キロに至り、田畑の区画整理や塩田まで整備が完了した。
その後、伊勢神宮から神様を迎えて神社を建立し、移民の家屋を修復し、また学校を新築、寺を造り、養魚場の池を設置する等、新田としてのほとんどの構成、事務手続き等も完了した。
29年新田の成功式を行い、農商務大臣、愛知県知事、十八連隊長以下、政府役人、県会議員など、約二千人以上の来賓となり、盛大な式となった。
以来年々豊作となったが、住民が安心して暮らせるように、信用組合を設け、養老会を起こし、農業の奨励策を実行し、米質改良の品評会を開催して、長年の夢であった豊かな暮らしができるようになった。
明治36年、大阪で開催された、第5内国勧業博覧会に、「神野新田開拓の歴史」を出品して名誉銀杯を賜わったことは誠に有難く、また光栄であった。
全国の知人より、「神野新田開拓の歴史を多くの人が見られるように」との要求が多かったので、印刷し「神野新田紀事」と題したこの書籍を配布した。