第36章 既往十年間の米作
明治26年の夏の田方植付の反別はおおよそ80町歩余であったが、新田受渡を完了した時は時期が既に過ぎていて十分な耕作をする日数もなく、地均らし等の手配も思うように進まない上に同年8月は未曾有の豪雨があったため豊川筋も非常な出水で、牟呂用水路の元杁や井堰等がことごとく流失した。
新田内の潅水の需要も次第に増加したが、残念ながら当時樋門工事中は水落が非常に悪いために植付けた稲苗が水中に没して腐敗することがある。
また快晴になれば元杁や井堰が流失した後なので、新田は全く用水を絶たれて稲が枯死するものが非常に多く試作さえ十分ではなかったが、刈入の結果は、おおよそ1,000俵の収穫があった。
明治25年の大被害後初めての耕作で特に前述の被害に遭遇しているにも拘わらず多少の収米を得たのは好都合であった。
明治27年度においては同年6月に地均らしが完成した300町歩余を確保し、ここに稲苗を植付けたが不幸にも日照りと塩分により至る所がほとんど枯死し、総収穫はおおよそ4,000俵であった。
明治28年夏の田方植付は総反別おおよそ550町歩にて6月22日より着手したが、何分地均らし工事が遅れたため自然植付も延び延びになり、ようやく7月10日に及んで全ての作業が終了したので、暇を与えて小作人一同を休業させた。
植付が遅れたため到底十分な収穫が難しいと思ったが、外幸(水路?)に土用水(用水?)の不足感も無かった。
これは雨により灌漑が十分だったのと最も嫌っていた塩分を除去してくれたため予想外の豊作となり、総収入おおよそ8,000俵に上り非常に好結果であった。
明治29年より35年に至る7ヶ年間の作況は大きな変化が来て、27年中の田面の高低を平均するために作った畑はこの期間内に次第に塩分が除去され、麦、大豆はもち論、いろいろな野菜の生育の結果も良好で、中でも里芋、西瓜、瓜は新田の特産として地方に価値を認められ、甘味も育ちも共に優秀であった。
米作の景況は既に述べたように年々ほとんど一定の割合で収穫が増加したが、30、31の年は風害、又は気候の不順により悪い統計となったが、その後は常に予定の収穫があり、35年は非常に天候不順であったが総収穫5,500石を見るに至った。
しかし、なお一部は多少の塩分が残り、他は塩分が除去されたとはいえ肥料は4~5年間に収穫物に吸収され、今は少しの肥料分も残ってないので堆積肥料をもって地質を改良した。
また両毛により次第に地力を増す時季になっていたので34年にこれを推奨し35年は収穫後100町歩弱の冬作より麦、菜種、馬鈴薯の作付をした。
当時、これらの植物により田面から生産される収益は少なくなかった。