牟呂用水については前にも記述していた通り、毛利氏所有の頃より八名郡、長部村大字八名井、及び加茂金澤の3ヶ村へ引水となっていたが、未だ双方間の契約前なのに、3ヶ村は断りも無く勝手に杁樋門より引水していた。
明治26年8月の出水の際に牟呂用水の元杁樋門、及び井堰とも全て破壊され漂流したことにより三村はもち論、当新田も一時灌漑に困り果てていたが加茂村は理不尽にも用水路中宇利川間の川を自村で遮留していた。
当方の利益を侵害しており許すべき状態ではなく直ちに人を加茂村に派遣して談判をしたが、加茂村は頑強に非を認めないばかりか、談判の結果も出ないのに村民が大挙して当方専用の第7号(牟呂用水の樋門第7号には当方の杁番小屋を設けており同号以下の最も重要なもの)樋門も自村の所有だと主張した。
これはじっくり対応してられないので、その筋に告訴することを協議したところ加茂村も自分達が不利だと認め郡長より調和の旨を申込んできた。
当時破潰し漂流の災難にあった井堰、及び元杁樋門等は大きな災害にも耐えられるよう十分の工事を施して復旧することに決めた。
復旧は決して容易な工事ではなく、かつ多大の工費が必要となるばかりではなく前記のようにわずらわしいもめごとの恐れもあるので、他の相当な方法を黒川某氏に相談した。
同氏の実地検分より、この復旧工事をするには必らず巨万の金が無駄になるだけでなく、その後の修繕等の年々支出する金額も少ないものではない。
むしろ豊橋附近で豊川から分水し新田用水とすれば水路も大きく短縮でき牟呂用水に比べれば僅か6分の1なるので、この際牟呂用水を棄てて新水路を開削の提案があり、直に新水路の測量を試みた。
それを聞いた3ヶ村は再び郡役所を通して種々の墾望をしてきたが、当方においては素より公益を重要視しており、あえて争い事は好んでいないので即ちに新水路開削の計画を止め、速やか示談を受け入れ双方の間で引水の杁樋々門の寸法等に付帯條件を定め約定書を交收した。
これをもって直に該井堰杁樋等の復旧工事に着手することとなり、そして樋門に属する分は服部長七に井堰に関する分は高取卯之助に任せることとした。
高取もまた、服部と伯仲する土工の老手でたゆまぬ努力をもって工事を進め、明治27年6月上旬をもって充分な成工を見ることができ、その年の田方植付の引水に利用でき自他とも認める満足できるものであった。