前章の設計により、各区の台場に石工人夫を配し、必要な石材や石灰セメント等、総ての材料を準備し、この工事に要する土砂を採取する場所として、渥美郡童浦村大字浦村地先にある官有山地が、最も適当であることを認め、払下をその筋に請願したら、愛知県庁において直にその願意を聞き届けられ許可された。
この官有地は大手堤防工事場から、わずかに15町途と近い所にあり、工事に必要な砂礫を採取するには非常に便利であり、かつ7~8月にまたがって天災が多く起きる時期であったにも関わらず起工後は晴天が続いたばかりではなく、最も恐れていた西風が吹荒れることも無く、非常に好条件であった。
工事は着々と進行して成工の日を待っていたが、明治26年8月下旬になり突如としてうす暗くなり、怪しい雲が墨を流したようになり、すさまじい猛雨が怒涛を巻き込んで身の危険を感じるほどとなった。
本部の詰員を始め各台場にいる石工人夫等は皆顔色を失って工事はもちろん、食事さえできる状況ではなくく成り行きを心配して過ごした。
しかし、翌日の朝方になって、いきなり雨がやみみ雲が散り、朝日がおぼろげに波に輝き渡った時には、人々は安堵し再生したような気分になった。
各所の被害を調査したが不思議なことに軽微な破損も認められなく人々は全員が驚き喜んだ。
当新田の地形は東側と北側は陸地に接していて、南方は一哩を隔てて童浦村外数ヶ村に近接しているが、西側の一方は遠洋に臨んでおり、ここに西からの強風を受けると多少の損害を見ることになる。
南側からや北側からの強風にあっても災害に会うことは無く、当日の暴風雨は実に東より起きて南に去っていったため被害を免がれた原因と思われる。
当新田築堤工事の進行上で最も恐れるのは西風であり、特に第4号大手堤防の延長は2,100間と長過ぎるため冬季になって西風が起るとさ細な作業をすることもできず、一隻の船を寄せる手段もないため、風が多くなる時期の前に工事を完成する必要がある。
即ち明治26年9月中旬までには、是非とも澪留を終らせなければならず、日々人夫を督励して自らも速く完成するように努力したが、当時の状況は従来の樋門が不完全であることを感じていたが改善を施す余裕もなく口替えや修繕をする程度に留め、第5号、第1号、第3号の各堤防は嵩上げの工事を施し、いよいよ同年9月17日に大手堤防の澪留を決行することにした。