甲説の区域を縮少して築堤位置の変更をすることは、断然排斥することになった。
その理由は、概ね乙の説の解説と同じで、この新田は比類稀のない大新田で、その大手堤防の維持は非常に困難なことは、毛利氏が巨万の金を投じてもなお達成できなかったことで明らかである。
その困難を初めから覚悟して購入したわけであり、今更何も狼狽するものではない。
結局、大難に立ち向かって見事に堅牢な築堤を完遂することを目的とした。
もし甲の説に従い、面積を縮少すれば折角の大新田も、名声も失うことになるので、甲説を排斥した。
また人造石工事の採否に関しては既に新田購入に先立ち、予算を編製した時に採用することに決定していたが、非難の声が高く、また忠告するものも続々とあって、家族等は大いに心配し、軽率に判断しないよう求めてきた。
更に人造石工事の実地ついては精細な調査を実施の上決定する根拠を集めることを理由として、明治26年5月中旬に服部長七と共に再び広島と愛媛の両県の人造石工事を実地検分をした。
私は前もって服部長七に相談したが、それは新田堤防は1割、または1割5分等の種々勾配にするつもりだが、毛利新田は1割半の勾配こそ適当であったが、風波が激烈な時は湖水が超越する心配があるので、堤防の上部における勾配を5分内外にすることと、宇品や三津浜の人造石が汐水のため、年々腐敗の心配があり、これに対しセメントで目塗をすれば腐敗の心配は無いし、また外見も大変見栄えが良いと説明した。
服部は大に賛成して、この実地検分で人造石が完全に波涛に耐えて永く維持できると認識し、これで人造石採用に決定し、該当工事の監督を服部に一任した。
一時乙の説の採用に反撃をぶり返す者も多かったが、工事が進むにつれて非難する声も鎮静下した。