前章で記述した大破損について監督の桑原爲善氏は山口県毛利氏の許可を得て被害の実況を詳細に報告し、至急対応策について相談した。
しかし、既に再三再四の災害にあい、その都度修築してきたが、今回の大破壊と特に多の人命を失ったのが致命的となり、今後も到底良い結果が望めないので、再築する意思も無くなり、ついに25年12月に新田を桑原名義に書替えて登記変更をした。
明治26年春なり崩れるままの放置していた堤防は、更に荒廃を重ね、
ほとんど工事の跡が無くなり潮水がはてしなく広がった海原に戻っていた。
当時、毛利氏は新田を売却することを決意していて、人を東西に派遣して売却を進めたが、起工以来の経歴を聞およんでおり、誰も買取りたい言う人も無く、大変困っていた。
私は毛利新田の購入を検討し現地を検覧をすると、これまで述べ来た各章にあるよう新田の大堤防は真西に面しているのと堤防の延長が1里余に亘っており、波浪の衝擣が強烈なので築堤が容易ではないことを知った。
しかし、九州巡游の途中で視察した宇品港で人造石工事を一覧したことを思い出し、これを毛利新田の築堤に応用すれば堅固で永く耐えて必ず好結果が出ると思い、遂に新田地籍全部、及び用水路の全体を買入れることとし、明治26年4月15日をもって該当の登記の手続を完了した。