第 9章 毛利新田最後の大破損

 明治25年の春になると小作人の移住が増加し130余戸と多くなり、土地も整備した結果、田面総計570余町歩に植付できるようになった。

 特に当年は降雨が多くて用水が十分であったことと、潮止後すでに三年経過していたため、塩分がほとんど除去されていたので豊作が確実視されていた。

 早稲は日を追って美しい穂が出て、地主も小作一同も数千石が収穫できるとの期待で大いに満足していた。

しかしまたしても天災が、明治25年9月4日に暴風に加え豪雨となり潮水を押上げて大堤防の内にある前年震災で崩壊した所を初め、柳生川筋からも潮水が浸入して、逆巻く波が新田内に氾濫し、130余の人家が押流され、住民は浮きつ沈みつつ、あるいは流木にしがみついて助かった人や怒涛に巻き込まれて水底の藻屑と消えたりと、むごたらしい惨状となった。

 この惨状を目撃した岩本、桑原の両氏、及び新田事務所員一同は途方に迷い、ただ茫然としていた。

そして小作人等は親を失い、子供を亡し、あるいは夫婦は分かれ分かれ、兄弟離散、家屋はもちろん家具や食糧等全てを波に奪い去られてしまった。

 幸い助かった者も命をつなぐ術がなく、事務所に来て救助を懇願する以外になかった。

事務所においても金や穀物を貯蔵してあるわけでもなく、わずかに薄粥を作って急場をしのいだ。

 そして一両日が経過した後、村役場の申告により郡役人が出張して流失の家屋や死傷者の人員等を調査して県庁へ報告した。

 報国を受けた県庁は直ちに救済のお金や穀物を支給し、仮の小屋を作って生存者の保護をした。

震災被害は極めて悲惨だったので、人々は大に恐怖を感じ、この地に留まって新田が修築のを待つ人は無く、大部分の者は絶望して落胆し、遂には散るように別の地域に出て行った。