明治24年10月28日、かの有名な濃尾震災が起こり数万人の人が亡くなり、数千の家屋が破壊され、田には亀裂が入り、川や沼の水はあふれ出て、人々はその惨状に恐れおののいた。
三河国の被害は濃尾地域程ではなかったが、それでも被害の個所は決して少なくない状況であった。
毛利新田も堤防が崩壊し地盤は亀裂が入り、澪留跡は8尺から9尺の陥落が見え、また各所より潮水が勢いよく浸入し、諸役員は必死となって住人などを指揮して一時の防御はできた。
しかし、修繕は一朝一夕の作業で完了するようなものではなかった。
その年の田の植付は350町歩であり、塩分が多ければ収穫量は少なく、塩分が除去できれば相当量の収穫が見込めるので場所によって収穫量は一定しないが、おおよそ900石の収穫は確実と推測された。
そのため小作人も期待し、遠方からも続々と新田に人が集まり増加し、翌25年を心待ちにしていた。