『家憲第四』は、農事改良の責任は地主にあり、自ら率先して小作人を教えるべきであると。
地主は主なり、小作は従なり、主たる者は自己の頭脳を改良し、農事を奨励して小作人を指導が必要とし、氏は自分の小作人に対して、あるいは信用組合を設け、あるいは肥料を貸与し、あるいは養老会を起こし、あるいは米質改良の品評会を開き、あるいは巡回教師を派遣し、あるいは農事試験場を設けた。
そして暇があれば氏が自ら小作人と一緒になって耕耘する等、農業の奨励改良を講ずることに努め、神野新田八百余町歩の農園は見通せる限り模範の素晴らしい光景である。
『家憲第五』は、郷里を同じくする者と親しみ一家の和合を計れと。
氏の郷里を思う心の厚さは、前に説いた不動産を提供して、一村の共有財産としたことでも明らかである。
聞く所によれば、氏の故郷の八輪村の住人は、深く氏の高徳を懐かしみ、毎年春秋二期を充てて、氏の祖先の霊を祭り、総代を選んで氏の臨場をお願いしていた。
氏の夫人の豊子は大木伯の令姉にして、夫婦仲は非常に良く、さわやかさに満ち、未だかつてもめごとを起こしたことも無く、円満な家庭は同地方の憧れとする所である。
氏は、また絶対的に分家を禁じたが理由は、枝葉がいたずらに繁るのは一家の和合をかく乱する基となると。
そして明治三十七年、神野、富田(紅葉屋の本姓)両家の不動産を管理する神富(じんぷ)合資会社を組織し、神野家はその七分を、富田家はその三分を出資して、いかなる場合に於いても、決して資金を費消しないとの規定を設けた。
いわゆる世襲財産として、一族の栄福とさの和合を計るための、氏の用意周到さである。
『家憲第六』は、働く者に道楽無しと。 氏が思うに、人は暇ができると、遊び惚ける気持ちが生じて、快楽におぼれ、放蕩に流れ、遂には身を亡ぼすまでになる。
これに反して専心業務に励めば、楽しみはその中に在って、働けば働くほど益々快感となり、何か他の道楽を味わう必要も無い。
氏の半生の歴史は、実に奮闘の歴史で事業創造の際、氏は自分の居室に入り床の間の書幅を眺めたのも、1年にわずか三日に過ぎないとのこと。
そして氏は趣味も持たず、ただ働いて働く中の楽しみを楽しんでいた。