湾の狂浪もこれを突き崩すことができず、今や穣々たる稲田は一千百余町歩、五十六字に区画されて、遠く六里を離れた八名郡八名村地内豊川より、灌漑用水を分水して、年々巨額の産米を収得しつつある。

 この新田の主管者は君の令甥神野三郎氏で、戸数約三百、人口二千四百余人、神社、寺院、学校、夜学会場、信用購買組合等、農村としての設備機関の全てが整い、すでに模範村としてその筋より表彰される位に発達している。

 往年の奥田正香君が名古屋実業界に勢威を振るっていた時代より、すでに一方に対持していたが、奥田派凋落の後は、実に名古屋実業界の覇王とも言うべき状況で、名古屋電鉄社長、福寿生命福寿火災の両保険会社社長、明治銀行頭取、朝鮮起業株式会社社長、東洋紡績株式会