以前は六條潟と言った浅い海面を干拓したもので、一千町歩以上に達する広大な水田である。
今から54年前(昭和12年時点)の明治16年に干拓を始めた山口県人の毛利祥久氏が完成したが、明治22年の大津波で破壊され一時放棄されたのを神野金之助氏が買い取り明治28年7月に完成した。
その間の毛利氏、神野氏両氏の苦心は並大抵で はなかった。
この水田は灌漑用水として約20Km上流の八名郡一鍬田の豊川で引き込みを造り利用しているが、これが豊橋市中を貫流する牟呂用水である。
現在(昭和11年2月調査)、この水田には269戸の農家があるが、いずれも他から移住して来たもので、その内訳の概略は、東三河67戸、西三河29戸、尾張80戸(その内60戸は海部郡)三重県67戸、静岡県11戸、岐阜県4戸、及びその他である。
この中の約半数は木曾木曽川下流地域の常に洪水に悩まされた地域からの移住者である。
移住当初は堀立小屋式の家に住んで居たが、現在では殆んど建直されて養蚕(桑は他から買入れる)を行う家等は、立派な堂々たる2階建の家もある。
いまだ移住後年数も経たな いので防風林等も小さく、早く成長する花無木等を家の周囲に植えて居ること等、新田集落の特色を見せている。
また集落の名前等もサノ割、五號、八軒家等、いかにも新しい集落を思わせる。
またこの種の干拓地は良質の水は井戸を余程深く掘り下げないと得られない関係上、共同井戸使用の場所がある。
神野新田のような水田一天張りの所は樹木も極めて少いために、薪がなく特にたきつけには不便なので、一般には藁を用いる。
ただし、この所は薪としては海苔笹の使用済みのものがあるのでこの点は便利である。
村人の言葉に注意すると大人は大抵故郷の尾張、伊勢の言葉であるのに、小供等は豊橋附近の言葉を使うあたり興味あることである。
産業は米作の裏作として麦、菜種の栽培が出来、その上前面の海から海苔の採取の出来る事は誠に恵まれている。
現在この新田は株式組織で経営されており土地の私有は出来ないので資財あるものは、他地域に田畑を買い求め出耕作も行っている。
引用元
タイトル 郷土見学の栞 神野新田に関する記事 18~20頁
著者 豊橋市立高等女学校校友会 『神野新田』
出版者 豊橋市立高等女学校校友会 書籍へのリンク
出版年月日 昭和12(1937年) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1027910/19