県外模範事業視察記(千百餘町歩の神野新田)

文章は現代風に訳したものです


- 上 ―

 愛知県で、我等一行は、最も多くの人に接し、最も多くの経営事業の紹介を受けた。

その中で、その企画が雄大で成績の顕著なものが、神野家の経営の中の1つである神野新田の土木工事である。

 我が県(筆者は新潟県出身)のように、沿海岸は直線で、加えて、北海の荒れ狂う大波は絶たず岸を浸食しており、海面埋立などは思いも寄らないが、水腐地の特徴として、沼地は蒲が生えた平野に散在している。

 現実に有名な福島潟のように、今や佐藤伊左衛門氏の私有になり、同氏も埋立をする意思があり、神野新田開発の精神と苦心について、県内の有資者は、必ずしも学ぶべきものが無いなどと考えてはならないので、ここにその梗概を記述する。

 愛知県渥美郡の牟呂、磯辺、崎村の地先海面の当たりは突出した洲がある。

面積凡そ一千数 百町歩と非常に広大なため、これを開拓すれば、広々とした美田になることは知識のある者なら以前から分かっていた所であったが、この地域は西風猛烈く怒濤が岸を洗うので築工を施すこは容易の作業ではない、以前より誰一人として起工を企画する者もなく、長い年月が過ぎていた。

 しかし明治20年の頃、かって我県(新潟県)の知事でもあった、山口県出身で当時の愛知知事の勝間田稔氏は、山口人の毛利祥久氏と同縣出身の貴縉数氏に新田開発の事業を勧め、その賛成を得て、遂に毛利氏の名義にて千百町歩の新田開墾の件を内務省に出願し、同年12月免許を得た。

 しかし毛利氏は、新田開発の大工事を私人監督の下に成功させることは困難であることを案じ工事に関する一切を県庁の監督に委託し、21年4月をもって起工式を挙げ、以来着々と工事を進め、翌22年7月にようやく澪留を完了したが、突然に荒れ狂う大波により築工が浸食されて2ヶ所が破壊た。

 続いて同年9月14日には、未曾有の大海嘯(かいしょう)が沿岸一帯の地域に起り、十数万円を投じてきた大工事も原形を留めずに全部を洗い去られ、かつ数十名の死者を出ししてしまった。

 このように不幸な天災に遭遇することが前後四回、それでも忙しく働き精をだして励んだ結果、ようやく23年5月に完成した。

 堤防の全長6,729間(約3里)、その費数十萬圓、新に開発された土地は牟呂村に属するものが面積900町歩、磯邊、大崎に関するもの300町歩となった。

 しかしその後、災害が相次ぎ、24年の濃尾の大震災にて、堤防崩壊や地盤亀裂が発生し少なくない損害を受けた。

 25年には、小作者も増加して130除戸に達し、田570餘町歩の植付をも完了したか、出穂の真最中、又もや大暴風のために堤防は多大な損害をこうむり、修繕については見当も付けられない状況であった。

 このように引続く年々の災害に、毛利氏も気持ちがくじけ、再築をあきらめたため、以後堤防は旧形を留めず、海水のゆききに任せたままであり、限りなく痛々しい状況であった。

 やがて26年の春、毛利氏はきっぱりと新田を売却することを決意し、人を東西に派遣して力を尽くして売却を進めたが、起工以来の経過を知られており、誰も応ずる者がなかったが、偶然神野氏が、以前九州巡遊の途中に、人造石工事を一覧したことを思い起こし、これを応用すれば永く耐える堤防となるはずと確信し、ついに新田地籍全部、及び用水路の全部を買入ることで契約した。

 これが同26年4月のこで、毛利新田は前述の経緯で神野氏の所有となりし、同時に氏の経営の下に神野新田として今日の成功を見ることになった。


- 中 -

 毛利新田を譲り受けた神野氏は、今迄の築堤方法では到底災害に耐えることは不可能だと気付いており、審議の結果、ついに服部長七氏の発明した人造石をもって該工事用に摘要することに決定し、精密な設計を立てた。

 最初に旧堤防の残っている所を工事本部地と定め、全部を十区に分割し、各部を一斉に起工することにし、26年6月上旬より工事に着手した が、同時に附近の官有山地の払下げを得て多くの土砂を搬入し、次々と作業を進捗していき、同年9月に澪留を結了し、同11月には防潮工事も故障なく工事を終了し、後り5ケ所の樋門も改造して、全ての外回りの工事が完了した。

 続いて氏は、諸地方の新田を実地に調査した結果を基にし、地均らしと穴埋の計画を立て、田方1筆を1町2反歩と定め、すなわち一辺が60間の2方に3尺の道を築き、また他の2方には用悪水路の両堤防を道路(巾9尺、または6尺)に利用し、翌年6月の植付け前に完成した田は三百町歩に達したが、これより次第に内部工事の推進し、29年4月15日に盛なる竣功式を挙げたが、それまでの苦心は、想像もできないほどであったと思われる。 

 これ以降、その筋の許可を得て神野新田と呼ぶことになり、新田の面積1,100町歩を一つの区割とするのは管理統制するためには不便なので、これを数十区に分割し、かつ移住民を根本的に統率し同化するための手段として、宗教と教育との力を借りるため神社、寺院、ならびに小学校を建設した。

 その理由は新田の移住者は、多くは伊勢、美濃、尾張、三河等よりさすらい来た者で、その郷里に在りては、貧しくて生活できなかったか、それとも信用を失墜して住み辛くなった者等が多く、北海道の移住民などに比べれば、性格や知識共に劣っており、統理上や農事上の運営に困難となる者がいた。

 対応策として第一に新田内に3ヶ所の神社を新築して内宮、外宮を奉祀した。

次は29年3月に神野尋常小学校を設立して教育費の全部を寄附すると共に、授業料を全免(その後村治の關係上35年に閉校し本村の小学校に通学するようにし、同時に神野氏は年々100円づつを同校に寄附することにした) した。

 更に、新田内に2,000坪の敷地を定め、約35,000円を投じて広くて立派な圓龍寺と称する寺院 (36年4月竣工)を建立した。

 神野氏長男の三郎氏は我等に次のように説明した、『寺院を建立したのは、高徳の僧に請い住職になって頂き、農暇の教誨に道理を理解してない居住民を指導すると同時に、突然の津波等があった場合には避難所となるようとの思いで巨万の金を投じており、その外周の囲いは出来限り堅牢に仕上げた』と。

 さすがに大事業を成功しているだけに、用意周到であるといえた。 

現在の耕地は750餘町歩(内畑100餘町歩)にして、在住小作者は300余戸1,300餘人、外に附近の農民にして新田耕地の小作者になっている者は数百除戸ある。

 作物の主体は米で、麦、大豆、馬鈴薯、その他野菜類がこれに次ぎ、アブラナも作付していた。

そして主作物の米作の一反歩の収量は、上質な土地は、約2石2斗、下質な土地は約7斗程度で、平均1石5斗であった。

 現在、一戸の耕作反別は平均1町6反であるが、その最も大きな所は5町歩に及ぶものもあって、田畑を耕すの事が、やや大ざっぱになる傾向があったが、人口が次第に増加するに伴って集約的となり神野家の努力は、やがてその牧穫の上にも大きな効果を見られるようになった。

 なお同家には、前述以外に養魚税の収入が年額6,000除円に達していた。

我等は神野家の自慢をするつもりは無く、神野新田より生み出す巨額の富が偶然にできたものではないと説明するものである。

 新田の開拓に関する氏の苦心と勤労とは、既に十分説明した来た。

次より氏が新田内の農業機関の整備に努力してきたかを説明する。


- 下 -

 恒産なければ恒心なし、荒々しい性格の小作者にその職に努力させるには、権力で押さえつけは反感を買うので、良く働いて倹約することが重要だと励まし、貯蓄をさせることが肝心である。

 神野氏は新田内の小作に貯蓄をさせるため31年に組合の方法を立案し、最初は小作者に、1日の業務が終った後に夜業として一把の縄、又は一足の草鞋を作らせて、一ヶ月の末に之を買入れ、その半額、又は一部を強制的に貯蓄させた。

 しかし、その多数は、貯蓄の意義を理解してない者で、たびたび怠慢者を出して、折角の計画も、一時は、わずかにその形体が残るだけの状況になったが、その後産業組合法の発布があった。

 それまでの法規を組合組織に適合するため全組合員で協議し、35年7月に無限責任神野新田信用組合と改称し、新田内の小作者は必ず組合員に加入するものとし、鋭意これを勤奨したので、最初は厄介視していた者も、次第に組合の精神、趣味を解し、現在は愛知県における模範組合となり好成績を挙げるまでになった。

 神野氏は又39年度より新田内に農事試験場を設け、水田1町歩、畑地1反3畝歩を試作地に充て、模範的に各種の試験を施行して成績を発表し、新田の改良に役立て、更に正副10名の農事員を置き、新田内の農事改良上の協議員として諸般の意見を諮問し、又必要事項の相談役、且つ試験場員、その他経験家として随時新田内を巡視し、農作物を監督した。

 そして各種の機関を設けて農事の開発督励に努むと同時に、監督責任者の神田三郎氏は、各地を巡察した結果、39年度より数千円の奨励費を設けて農事奨励の方法を制定した。

 山崎農林学校長は我等に次のように紹介した、『氏が新田内に農業を奨励するために作った施設である、常に気を配り親切丁寧で細かに対応されている、偉大な農者の手本として見習うべきである』と。

 詳しくその施設の内容を聞いて、我等もその説明に嘘が無いことを実感した。

その方法の概要を次に紹介する。

 新田開拓以来十年、耕地も次第に土地がやせてきて、ついに肥料が必要な状況が年々多くなってきたが、人造肥料を購入して使用するのは農業経済的に困難であるため、堆肥料並に緑肥の奨励規定を設け、3ヶ年の継続事業として実施した。

 

     ▶ 堆肥及び堆積肥料舎建設の補助

  一、該肥料製造人は毎年5月、12月の2期にその旨を地主に届告し、検査をして、千貫目に対し

    2円の補助金を与える、但し成績の良否によって金額は増減する、

  二、肥料舎を新築するものには、木、竹、瓦の代金を3年より7年迄の間に無利息で毎年一定額を

    返却する方法で貸与する、

  三、地主より借金せしものは、15円につき堆肥千貫目づつ堆積すべること、これに反するときは

    1割の利息を微集する、

  四、地主より借金したものは、その半額を補助する、

 

     ▶ 屋外 堆肥 補助

  藁と土とを併用して堆積するものには、藁十束に付き掟米(小作米)一升を定額より引き、泥土を

 河川より一坪上げたるものには七十銭までの補助金を与える、 

 

     ▶ 肥 栽 培 補 助

  一、田の裏作に紫雲英(ゲンゲ、レンゲとも呼ぶ)、青刈大豆を作付するものには種子を配布

    する、

  ニ、紫雲英を栽培するものには1反歩に対し1円50銭若くは之に相当する肥料を補助する、

  三、青刈大豆を麦作する前に栽培するものには、1反歩に70銭又はその代金に相当する肥料を

    補助し、麦を植えたうねとうねの間で栽培するものには補助しない、

  四、補助している肥料を縁肥する時は、その2~3日前に届け出で地主立会の上で行うこと、

  五、紫雲英は8月中に、青刈大豆を栽培するものは2月中に、その田の字番及び反別を届け出る

    こと、紫雲英の栽培者の中で成績佳良なるものは賞を与える、 

 

 また多額の費用を投じて共同苗代を試験的に設置により相当の成績があり、小作も共同苗代の必要を知ったので、共同苗代に要する人造肥料は地主より年利6朱にて貸与すること、各区に2組づつ褒賞を授与すること等の奨励法を設け、小作米の改良法としては、小作米を納める際、1俵毎に米質と俵装とを審査し、次の賞罰を行うこととした。

  一、1等より3等迄を合格とし、1等には1俵に付き5合、2等には2合の賞米を与える、

  二、4等と5等を不合格とし、1俵に付き相当の割増米を出させる、

 そして賞与興米は翌年度の小作が米を納さめる時に渡し、上記の一、二の外、1、2、3等米には、5俵 に付き1枚の抽選券を渡し、旧正月の三日に小作者を圓龍寺に集めて抽選会を開き、品物は成るべく婦人に適するものを選び、この機会を利用して婦人に農業思想を注入するに努めた。

 また割増米は小作米を納める時に徴収し、これで稲架用の丸太その他改良米用の農具を購入して貸与し、5ヶ年間保管使用した後付与することとし、その他一般にも無料で貸与し、翌年9月にこれを調査する。

 なお俵装の見本として、一俵づつを各区長宅に備え、これを模倣するようにした。

神野三郎氏は我等に次のように語った、「審査の結果、不合格の4、5等米は故意に劣悪の者を出して懲罰的に割増米を徴収することにした、昨年迄は不合格になるものを多少出ていたが、本年は1俵も無かった」と。

 また、「去る32年来、小作より納入の米5合づつを別に貯蔵して小作米品評会を開いていたが、意外な弊害あったので中止し、その後は現在の方法を執るようになった」と。

 我等は一般農界のために、氏の眼に映る弊害が、どのようなものかを聞きたかったが遂に聞くことができず深くうらんだ。

 以上の外、正條植を奨励して定規植とし、1坪42株以上の者には、1反歩に15銭の補助金を交附し、改良?を築けば嫌瓦サトと?築職人とを補助し、また競作試験をし、1場所三反歩を10人に分配して試作させ、審査の上1等に半俵、2等に1斗、3等に5升の米を賞与した。

 1区内に農事熱心者1名を選抜し、肥料を地主より補助して肥料試験を行わせ、その成績を一般小作者の参考にさせる等、農事の改良督励に気を配り努力されるのは、尊敬できる。

 土地は新たに開拓されたもの、小作は外来の移住者が乱暴で扱いが難しいことがある。 

神野氏の農事経営は、祖先伝来の地を守ることが基本となっているので、この新田とは基本が異るので、その苦心と試作は、県大地主の模範とするべき所で、動機がとのような者だったかを質問する必要もない。

 前述してきた状況で神野新田の農事は着々と改良され、乱暴で扱い辛い移住者も、今は温良忠実な小作者となり、農産額が年々増加するのと同時に、品質も著しく向上した。

 神野三郎氏は、『新田の米は、地方米よりは市場価格で1俵に付き50銭程安値だったが、今日にでは同等若くはそれ以上の価格を保つまでになった」と。

 次のような諺がある。

「天は努力する人を助ける、偶然に良い田を持った地主でも、額に汗をして働かないと、永く天の恵みを受けることはできない」

                 - 以下が原文 -

「天は努力する人を助く、假令美田を有する地主なればとて、額上に汗せずば、到底永く天恵を享くる能はざらんなり。」


引用元

 タイトル     県外模範事業視察記          神野新田に関する記事  コマ番号66(98~108ページ)

 著者       今泉鐸次郎 著              『千百余町歩の神野新田』

 出版者      北越新報社              書籍へのリンク

 出版年月日    明41.5(1908年)             http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/838291/66