東三河産業功労者伝(神野金之助)

一.出 身

 神野金之助は嘉永2年(1849)己酉4月14日、尾張國海西郡江西村(現海部郡八開村)に生れた。

 神野家は遠く藤原秀郷より出で、三世の孫文行の子文範が大和國(奈良県)神野に住して神野左衛門と称した。

 永禄の頃、一時美濃國海西郡秋江郷に移住したが、更に木曽川附近の寄洲に移り、代々この付近の庄屋、あるいは長老とし郷の敬愛を受けて来たのである。


 金之助の父金平は文化八年十二月に江西村に生れ、天保2年21才にして留木裁許(木材伐採を採決して許可する役人)を命ぜられ、帯刀を許された。

 天保6年に同村の三輪茂八の女を妻として迎え、同9年に隣村の給父に別居して寺小屋を開いた。

 その頃、神明津村に日比野武四郎という者がおり、金平が寺小屋の師匠として実力を養いながら活躍の機会を待っているのを見て、今こそ志を立て家名を挙げよと勧めたので、彼は急にやる気を起こし、寺小屋を閉じて木曽川沿いの高須街道に店舗を出し、肥料の干鰯販売業を開始した。

 四日市・桑 名・名古屋等で仕入れては、これを尾張・美濃の各郡村に販売するのであるが、その取引は次第に増加した。

 しかし天保9年7月27日、隣家に出火があって、金平の家も類焼したが、幸にも肥料を所蔵してあった土蔵は火を免がれたので、これを修理して店舗とした。

 弘化4年鵜多須陣屋から隣接する11ヶ村へ肥料貸付販売の特権を得たので、益々手広く営業を拡張したが、勤勉なる金平は自身で板車を作って夜業の暇に肥料を運搬した。

 金平には5男1女があったが、長男小吉は富田重助の養嗣子となって重助を襲名し、二男実太郎は23才で病死し、三男三甫吉は3才で若くして亡くなった、四男三代吉は19才で没した。

 そして五男岸郎が後をついで金之助と云った。

長男小吉(富田重助)は父金平の援助を受け、名古屋に紅葉屋の暖簾を掲げて前後十年間の活動を続け、東海地方はもちろん北國筋にまでもその名を轟かした。

 明治23年に家政要則を制定して神野・富田両家の資産を共有とし、38年に神野富田殖産会社を設けて両家資産保全の計画を立てたのである。


二、幼年期

 前述のように金之助は幼名を岸郎と言い、父金平39才、母マツ子33才の春、すなわち嘉永2年4月14四日に生れた。

 金平の五男である。

少年期におては農村の平凡な少年であったが、よく母に伴なわれて寺参りをし、家では毎朝食事の時に仏壇より時分用の箸を拝受し、食後には又仏前に戻し、礼拝して退くを習わしとした。

 10歳の頃より朝の看経を始め、以後一日もしない日はなかった。

村の寺院に説教のある時には必ず母に伴はれて聴聞に出かけた。

 このようにして、その信仰心は自然の中に培養され、金之助が一生を通じて不動の精神を支配するに至った のである。


三、青年期

 明治5年に江西村外9ヶ村の副戸長(今の副村長)に任命された。

その後戸長に昇進して、以来村務を鞅掌したが、時勢の急転に直面すると、彼の意気盛んな功名心は自ら永く戸長の職にをすることなく、同9年3月に戸長の職を辞めて父兄の業務に参加し紅葉屋の事務に努力することとなった。

 時に年28であった。

紅葉屋はここに金平・重助・金之助の父子3人が一団となって、縦横に活動し、その経営振りは、当時としては珍らしい舶来品を取扱うなど、新時代の先端を行くものであった。

 しかしこれは一つの手段であって、その利得は金融で運転し、更に土地経営に手を染め、山林事業に進み、遂に新田開墾にまで進展したのである。

 その間に幾多の波瀾曲折があったが、堅忍持久であまく乗切り、所定方針を遂行したのである。


四.神野新田の開設と施設事業

 金之助は以前の明治17年に三河額田郡菱池の沼地を開拓して成功した経験があり、墾田事業に関しては若干の識見と興味とを抱いていた。

 丁度この頃、彼の家と親成関係にある日比野明と言う者が、廃地となっている毛利新田の有望なことを説明し、これで購入を勧誘したのである。


 よって彼は土木請負業の服部長七を伴って三河に出かけ隅々まで牟呂村の毛利新田を観察したが、新田とは名のみで、浜は見渡す限りの荒涼たる廃墟であり、堤防再築の容易ならぬを直感したのである。

 しかしまた、もしこれに万全の策を施し、極めて誠実に対応すれば事業の難しさに正比例して必ず成功の偉大なるものがあると考えたのである。

 これは毛利新田が壊滅してから2年後の明治26年の春であった。

そして毛利新田は売主たる毛利と買主たる神野との間に値段が折衝され、遂に41,000円を以て1,100町歩の土地を取得する契約書を交換し、保證金を手渡して関係を絶ったのである。

 金之助は契約締結後のある日、たまたま来た父金平と共に新田の検分に出かけたが、その時は丁度満潮の時で見渡す限りの青海原で、新田の残骸も認められなかった。

 金平が怪んで新田の所在を質問したところ、金之助は遙か沖合に点在する残杭を指しで、あの部分が海と陸との境界であることを語るのであった。

 この状景を眺めて金平は、新田開拓の無謀なるを言い、保證金を放棄しても速かに思い留まるべきであることを力説したので、本来孝心が深い彼は父を心配させる事の不孝を思い、一時は新田の開拓計画を断念しようとした。

 しかし建築請負業の服部長七は成算は十分であることを力説し、遂に金平が新田経営の可能性あるを肯定するようさせた。

 明治26年4月15日、新田全部の受渡手続きは終了し、1,100町歩の所有権と用水路との全部てが彼の所有となった。

 毛利新田が神野の所有となってから直に計画は進められた。

まづ広島の宇品及び伊予の三津浜に施工された人造石堤防の実状を慎重に調査した結果、服部長七の人造石を新田築造に採用することに決めた。

 明治26月上旬、まづ第一番に大手堤防の中央部に当る旧堤防の残存せるものを利用して屋舎数棟を建設し、これを工事本部に充て、新たに築造すべき大堤防全線を十区に分割し、一区毎に台場を築き、石工人夫を配 して一斉に工事を始めたのである。

 そして各区中、海底の最深部分3ヶ所を選んで澪留場所と定めた。

その1ヶ所は60間、他の2ヶ所は各25間で、澪口は人造石を以て 周りを取り囲み、抗とむしろで左右を防障(じゃまをして防ぐ)に充てた。

 また澪敷は幅20間としこれに粗染蒲焼(ソダカバヤキ?)とを敷いて共の上に砂礫を充たした叺(カマス)と石籠とを積み重ねる方法を取った。

 築堤工事に必要な土砂は、渥美郡童浦村大字浦村地の官有地の払下げを得た。

ここは大手堤防から15町余(109m/町、≒6.6Km)の近い所に在って、運搬上多大の便利を得た。

 その外にも牟呂村の見山に堆積せる貝殻を採取し、之を俵装して土俵の 代用とした。

そして澪留工事は着々と進捗し、また天候にも恵まれ工事は予定通り運ばれた。

 毛利が数次の暴風雨に害せられて遂に絶望したのは、秋冬の頃に吹きすさぶ西風を征服し得る策なしと諦めたためであった。

 彼はその恐るべき西風の来る前の、9月中旬までには、是非とも澪留を終らなければならないとの考へから、自身が第一線に立って人夫を監督し励まし、もっぱら工事の速成に努めた。

 澪留作業は9月17日の大落潮の時期を見極めて行なわれた。

すなわち17日の午前4時半の明け方より、先づ25間の部分に着手し、同6時には作業を終え、翌日には他の2ヶ所に対して同様に最短時間内に一気に作業を施したのである。

 その作業がどのように壮観を極めたかは、今なお当時の目撃者の語り草となっている。

当日は午前2時より2ヶ所の澪口の両側において盛にかがり火をたき、酒樽を抜いて気勢を添え、中央に設けた座には金之助と服部長七とが監視の眼を八方に配り、太鼓の音を合図に作業を始め、半鐘の音をもって中止の命令とした。

 そして人夫数千人を紅・白の2隊に分け、互に競争をさせ、上潮と ならない間に最短時間をもって作業を完了させる方法を取った。

 補佐役として岡田伊助、森初太郎、外十数名が当たり万全を期した。

また海上には無数の船が砂石を満載して所定の澪口に群がっていた。

 中央には 神札御幣と「賞金五百円」と大書せる札を掲げ、作業の人々に向って「早く中央まで築留めた方が優勝者で、この賞金を與へる。双方共負けない様に競争して努力せよ」と叫んだ。

 とかと服部は別に予備隊を率いて赤と白との手拭を渡し置き、両隊のいずれか敗北しそうなのを見れば、この予備隊を加勢して双方同時に中央に達するようにと考案を立てていたのである。

 そして朝もやを破って太鼓の音が勢い良く海上に響き渡ると、赤・白の両隊は一斉に作業を開始し、見る間に澪の中央に迫り、勝敗が決まる直前、たちまち作業中止の半鐘が鳴り渡った。

 優勝者に授けらるべき懸賞札と神札御幣とは一本であるべきが、この時これが二本となっていた。

両隊の組頭は各々我隊が優勝したものと思って威勢よく引揚げたのである。

 そして最中央部の余った所は予備隊が作業したので、緊急を要する澪留工事 は立どころに完了したというのである。

 大手堤防3ヶ所の澪留作業は、予想以上の好成績を収めて、以来着々と築堤工事を進め、土石その他の材料を満載せる数千艘の船舶が集まって来て、一生懸命励み努力し休まず作業した結果、その年11月になり、満潮時に上2間を余すまで築造し、大新田の輪廓はここに竣成したのである。

 その後、第3号堤防の人造石工事に着手すると同時に、同堤防にある5樋門の工事にも着手した。

この樋門は総数5ヶ所の中、3ヶ所は幅9尺にして、左右の2所は幅6尺5寸であった。

 そして中央のものを船通しとし、この工事は27年3月になって竣功した。

第4号堤防の樋門工事もまた引続いて着手されたが、この樋門が豊橋方面より流下する二十間川の水路に当たるので、牟呂吉田村初め関係村落民の反対運動が起ったが、渥美郡長の松井讓等の尽力によって間もなく終息し、28年3月の落成後は、これと反対に悪水の排泄に便利なことが分かり、関係村民はそれまでの反対運動を悔い、むしろ逆に彼の事業に感心し、新田堤防の功徳を褒めたたえた。

 続いて第5堤防も また竣成した。

大堤防の構造に関しては1丈8尺の所までは1割半の勾配、上部6尺には5分の勾配を付ける計画であったが工事期間中の明治27年冬の大暴風雨の経験により大手堤の全高を2丈7尺(他は2丈4尺とす)に上げ、下位勾配は前設計通りとし、18尺以上は全部5分勾配としたならば、決して余波が堤上を越す事は無いとの結論を得た。

 そして数年後にようやく施工が完了して今日見るような大堤防が現出したものである。

このようにして出来上った大堤防は延長おおよそ3里の延々長蛇の陣形をし、1,000町歩に余る大新田を防護するものであって、その中でも、第4号堤の2,030間と第3号堤の1,300百間とが最も重要な地位を占め、海潮に対する大防波堤として新田護持の重要な要と言うものである。

 しかし、蟻の一穴より堤が崩れると言う諺も有ることなので、堤防の監視には間断なく注意を払はなければならなかった。

 彼はこのことに関して一般人の考が及ばない非常に適切なる一考案を思いつ付いた。

それはこの3と4号両堤防の3,300百間に33体の観世音の石像を100間毎に安置し、特にその起点には、 大日如来の石像を安置して仏像を尊敬し敬い謹んでお手伝いする精神の下に新田住民を巡拝せるようにした。

 これにより、もし堤防に破損ヶ所があれば、容易に巡拝者によって発見でき、破損場所の特定も容易となるわけである。

 実に彼は住民を仏に帰依させ、その信仰心にうったえて堤防の安全を保とうとしたのであつて、賢明な考案と言うべきである。

 この計画は大に諸人の歓迎する所となり、大日像を初め33の観音像はことごとく有志者の寄附金によって建設された。

 外郭の堤防が完成したので、続いて内部の開墾整理、用悪水路の設備、畦や畑の区分等に着手する事となった。

 彼は各地の新田事業を視察して研究を重ねた末、26年11月、いよいよ地均し工事をはじめたが何分にも広範囲に亘るので実際の作業は容易でなく、27年6月の苗の植付期までにようやく300町歩を得たのみであった。

 そして数百人の人夫を使用して11月より再工事を始めたが工事が捗ら取らず、特に大用水路東手の6号用水より第9号用水までの50余町歩、西手70町歩との地均工事、並びに古川通り埋立工事では、到底人力のみでの作業できる所では無いとまで言われたので、研究の末、スウェーデン式線路を数マイル(1.6Km/マイル)、及び木製軌道等を購入して工事の完成を急いだ。

 新田開墾に費された労苦は、その成功の後より見ては想像することも許されないものがある。

1,100町歩に亘る大新田を物の見事に開拓した大事業の裏面には、血と涙とを以て書かれた奮闘史の一巻が潜在するのである。

 一口に堅忍不抜の精神と言い、あるいは万難を排して進む勇気と言うように単に抽象的文字で表すのは、彼の血涙の痕を言い表すことは至難であるでしょう。

 前には服部長七の献身的努力があり、後には父金平の鼓舞激励があって、彼は益々事業上の責任感を強くし、そして自らその成功の大なる価値を信じない訳にはいかなかったのである。

 工事中彼は名古屋と三河との間に日を暮らしたが、往復の汽車は2等を節約して常に3車に乗り、その賃金の差は労役に使用している老幼婦女に与えた。

 新田における彼は工事の監督、作業の指揮に身を委ね、朝は早く星を戴いて起き、暮過ぐる頃までも働いた。

 ある時は終日潮水に浸り、ある時は数日草鞋を解かなかったこともあり、夜間は破れ蚊帳に十数人と共に首だけを差込んで丸寝した事もあった。

 当時彼は37・8歳の男盛りで体が大きく肥満の体格であったが、それが14貫に激減したと言う一つのからもその辛苦の程が察せられる。

 彼が全力を傾注した敢為邁往の精神、あふれるばかりの恩に報いて喜ぶの念を喚起した宗教的信念、これ等が事業の上に光明を与えずにはおかなかったのである。

 秦は言え大事業の経営にはまた大財力が伴うことは言うまでも無い、前後3ヶ年の間、一日は数百人から、時には数千人に及ぶ労務者を雇使したので、巨萬の経費を要したことは勿論で、ある人は少くも50萬円を下らなかっただろうと言い、またある人は90萬円を費したらしてと言った。

 そしてこれを彼に質問すると、彼は只思っていた以上に多額であった事のみを述べ、一時は心中その成功を疑った事もあったとまで語った。

 しかし父金平が始終激励して「一旦着手した事だから、資金の事は考えず一路邁進せよ。」と言い、資金の調達は金平自らこれに当り、彼は一意専心事業遂行にまい進した。

 何しろ干潟を築立てた新開地のことなので塩分が多く、稲苗の枯死が多かったため、明治27年の収穫は4,000俵に過ぎなかったが、翌28年には8,000を得るまでになった。

 この如く年々増収の傾向にあって現在では三万数千俵を突破するようになった。

その他麦・菜種・大豆・野菜類も生育良好で、その中でも、里芋・西瓜等は新田特産品の好評を博するまでになった。

 小作人と地主との間は他の地方に有りがちな小作争議もなく極めて円満で、淳朴質実なる風が培われ、模範的農村として世に推奨されていることは、全て創業者であり経営者で会った金之助の功徳による所である。

 それと同時にまた、500余戸の新田内外の関係農業者が一致団結、新農村を愛護し、相互に勤勉で節約に徹して平和の生活を営み、世に言う所の労資協調より更に労資一体の実を挙げた結果と言うべきである。

 明治29年4月15日、新田事業の大成を告げた功徳を永遠に伝えるため、記念碑建立の式典が挙行され、同時に開墾成工式が執行された。

 新田は年を追って好成績を挙げ、諸種の事業を併せて行い、その発展を促進したことはむしろ脅威と言う程であった。

 先ず第一に教育の普及と宗教に依る慰安を与えるため、29年に神野尋常小学校(明治35年廃止と牟呂小学校に合併)と、神富神社及び圓龍寺を建設し、これによって常に精神修養を怠らない様に努めた。

 同時に農事試験場を設けて、新開地に適する米麦の品種、肥料の選択、二毛作、野菜等あらゆる生産物の調査研究をして、その結果堆積肥料の必要を認めて第15師団より厩肥の払下を受け、一面に紫雲英(ゲンゲ、レンゲとも呼ぶ)・青刈大豆等の栽培を奨励した。

 また小作人の金融を円滑にすると同時に、地主小作間の意志を疎通させるために明治32年に組合を組織して畜牛の購入、農具の買入等をさせ、明治42年に野新田信用組合と改め、貯蓄金融の外に生産物の共同販売、 産業と生計の両用品の共同購入はもちろん、米麦の精白、豆粕の粉砕工場を設け、また農業倉庫をも建設した。

 神野新田を灌漑する牟呂用水は、最初は八名郡の一部と当新田のために開いたが、新田の用水路を改善し、幾分の 余剰水が出来たので、豊橋附近の耕地400町歩に分水することになった。

 堤防地先海面は開拓以来年々土砂を打寄せ、干潮時は数百間の干潟を見えるようになり、ここが海苔生産地になることを発見、以来堤防外の海面のほとんどが最も適当な繁殖地となって、今日莫大な産額を見るようになっている。

 その他請願して巡査を置き火葬場を作り、更に大正12年には長生病院を設けた。

昭和2年11月濃尾平野に大演習が行された際、今上陛下には畏く(カトコク)も名古屋に行幸があり、その間に産業奨励の御思召を以て勅使の山縣侍従を神野新田に御差遣あらせられ、神野新田事務所に於て聖旨の御伝達があり、新田の由来、沿革、現状について詳細に聴取せしめられ、新田内諸施設等を巡覧された。


五、後記

 

 彼はこの大事業の他、東海汽船会社の社長となり、明治31年以来18年の長期に亘り明治銀行の頭取として活躍し、更に明治41年には福寿生命保険、福寿火災保険会社を設立してこれらの社長に就任、あるいは名古屋電気鐵道会社の社長等、彼が関係した方面は非常に広範囲に渉り、朝鮮釜山鎮の埋立、名古屋電力会社、あるいは東洋紡績等、数えきれないほどである。

 そしてこれを一貫するに誠実をもって事に臨み、少しも私心を挟まないことであった。

 そのため明治銀行の頭取であった19年、東洋紡績の重役は38年と言う様に長期に亘って地位を保つことができたのである。

 明治42年8月、61歳の老歳をもて渡米実行団に加わり、9・10・11月の3ヶ月に亘って米大陸を視察した。

 明治37年6月貴族院の多額納税議員となった。

明治37・8年の日露戦争に際し軍國に奉公した功績により、39年4月勳四等旭日小受賞を拜受、また同戦争に際して軍資金を献納した理由をもって金杯を下賜され、45年1月、菱池新田、及び神野新田開発の功績により藍綬褒章を下賜された。


 大正元年11月 大正天皇には陸軍特別大演習の際、名古屋離宮に産業に功労ある人々を召されて謁(エツ)を賜はっ たが、彼もまた拝謁の光栄に浴した。

 大正4年11月京都において御即位式の大礼が取り行こなわれた時、正6位を授けられ、大正11年2月20日に危篤のことが天皇に伝わると特旨をもて従五位に陞叙(ショウジョ)せられた。

彼は以前より宗教心に厚く、東本願寺の顧問となって大いに財政を整理し、また大谷派本願寺の勅使門の寄進(神野・ 富田両家)、鐘楼堂再建の寄進等は世間周知の事実である。

 また大正9年財団法人神野康済会を作った。

その康済会資産は不動産20萬圓、現金20萬圓に上ったが、ことごとく彼個人の寄附によるものである。

 昭和5年5月、彼の偉大なる事業を後世に伝えるため、領徳碑が新田内の神富神社境内に建立された。

彼の没後8年、新田開發より37年の後に当るのである。


引用元

 タイトル   開校廿周年記念東三河産業功労者伝  神野新田に関する記事  312~324頁

 著者     豊橋市立商業学校           『神野金之助』

 出版者    豊橋市立商業学校          書籍へのリンク

 出版年月日  昭和18(1943年)           http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1705146/180?viewMode=