・下の茶色が福島献吉が作った富士見の新田、左(西)から西富士見、中富士見、東富士見
・左手前が牟呂市場当たり、右手前が豊川、正面が知多半島と渥美半島の間
・毛利新田(神野新田)は富士見新田の奥側と左側にかけて干拓されることになる
・ふじみ新田は文政3(1820)年、吉田(豊橋)藩が、福島献吉を牟呂沖新開惣奉行に任命して築成した
・新田は波浪で堤防が決壊して荒廃したが、西富士見
新田は、文政4(1821)年に富久縞新田として修復
・しかし、中富士見新田・東富士見 新田は荒廃に帰していた
・明治13(1880)年、牟呂村の9人(加藤七三郎、杉浦次郎三、古溝作右衛門、夏目治三郎、芳賀保治、
白井清作、住吉米治郎、森田久太郎、森田庄次郎)の手によって塩浜に回復させた
・明治13(1880)年4月に着工、8月13日、103町歩8反4畝13歩の新田開発(1万7千円)に成功した
・昭和7(1932)年、豊橋市牟呂町東明治新田と西明治新田と命名される