神野新田開拓当初、入植者の募集が困難であったことはよく知られている。農家の二男三男に神野新田の合同寄宿舎へ移住しての営農を奨励して、日給35銭から50銭、うち12銭が食い料、10銭が積立金として天引きされる。積立金が50円を越えたら独立自営でき、その時は住宅と農具を供与するという趣旨であった。
『神野太郎伝」には、明治40年ごろ神野新田事務所内の長屋には「数人から十人くらいの若い衆が住んでいた」「母は、男衆のために、朝暗いうちから起きて食事、弁当の支度をし、掃除洗濯や夜食の用意した」とあり、合同寄宿舎の生活の一端が知られる。
また、「神野三郎伝』には「屋敷に勤めた者は、誰彼なしに、秋の収穫期になってこれなら大丈夫、食べて行けることを見越して、茶碗から箸まで、独立出来る状態にして一戸をかまえさせた」とあり、独立自営の様子を伝えている。