・明治29年の神野新田完工式に田中芳男が来賓として出席、農商務大臣の榎本武揚は主賓である
・神富殖産㈱資料の明治37年1月21日に神野新田紀事のことと思われる「神野新田沿革史の印刷」がある
・神野新田紀事のタイトルと序言の日付が上記の明治37年1月21日に近しいことから、神富殖産㈱資料の
田中が第五回内国勧業博覧会の審査部長と考えられる
▶ 略歴と肖像写真
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▶ 内国勧業博覧会
・博覧会という言葉を広めた人
・第1~5回全ての内国勧業博覧会に関係した人
・パリ万博、ウイーン万博を視察した人
・榎本武揚や品川弥二郎とも親交がある
・先頭の表にあるよう、金之助とも親交がある
▶ 年表
年号(和暦) 事 柄
1838年(天保9) 8月9日、飯田(現在の飯田市)の久々利陣屋に父田中如水、母津眞子の三男として生まれる。
1856年(安政3) 尾張の名古屋に出て、伊藤圭介の門に入る。本草学の勉強に打ち込む。18才。
1861年(文久1) 伊藤圭介に従って江戸に出る。
1862年(文久2) 幕府の蕃書調所に出仕。また、伊藤圭介の伴をして、横浜にシーボルトを訪ねる。
1865年(慶応1) 物産所(開成所に設置されたもの)にて舶来植物の調査栽培を行う。リンゴの接木、白菜の栽培を行う。
1866年(慶応2) パリ万国博覧会へ出張を命ぜられる。11月、パリに向けて横浜を出港。
1870年(明治3) 大学出仕を命ぜられ、太政官委任。物産局を起こすべく命を受け、設計を行い、新築する。
殖産興業の発展を計るため、博覧会開設の必要性を主唱。
1872年(明治5) オーストリヤのウィーンで開催される博覧会の御用掛を命ぜられる。
1873年(明治6) ウィーン万国博覧会へ一級事務官として派遣される。金鯱等展示する。
1874年(明治7) 農事修学場・駒場農学校(東大農学部の前身)設置案を起草。
1875年(明治8) 上野を整備し、動物園及び博物館を建設するため、佐野常民等と調査する。
1877年(明治10) 第一回内国勧業博覧会開催。内国勧業博覧会審査官を命ぜられる。
1880年(明治13) 第二回内国勧業博覧会事務官に命ぜられる。
1881年(明治14) 第二回内国勧業博覧会開催。大日本農会創立、幹事となる。この年に農商務省が新設、田中は
農商務省大書記官・農務局長兼博物局事務取扱を命ぜられる。
1882年(明治15) 大日本山林会創立、幹事となる。上野公園に博物館竣工。博物館長となる。
1883年(明治16) 農商務省を退職。
1885年(明治18) 大日本農会幹事長に就任。東京学士院会員に選ばれる。
1889年(明治22) 第三回内国勧業博覧会審査官に任ぜられる。
1890年(明治23) 帝国議会発布に依り、貴族院議員に勅撰せられる。神宮外苑会頭より伊勢神宮外苑に農業博物館
建設を委任される。
1894年(明治27) 大日本山林会幹事長に就任。
1896年(明治29) 大日本水産会幹事長に就任。
1897年(明治30) 従三位を賜る。
1906年(明治39) 勲一等瑞宝章を賜る。帝国学士院会員となる。
1914年(大正3) 爵位男爵を授かる。
1916年(大正5) 6月22日、東京本郷区金助町にて死亡。東京谷中の墓地(谷中霊園乙八号10側)に眠る。