岡田秀吉

▶ 豊橋百貨事典より

 吉田(豊橋)と田原(田原市田原町)を結ぶ海上交通は,江戸時代からあったが,明治6(1873)年より小型船ながら牟呂(豊橋市牟呂町)と田原を定期的な通船が行われるようになった。明治17(1884)年からは蒸気船が使われるようになり,同36(1903)年には,毎日320人ほどが利用するまでになった。

 こうした背景のもと,明治31(1898)年8月に渥美巡航船会社が,同31(98)年12月に三河巡航株式会社が設立された。両社は,明治36(1903)年12月に合併して渥美巡航株式会社が設立された。石油発動機船の就航により,多少の天候にも左右されずに所要時間は大幅に短縮されたため,最盛期には1日6~11往復もの往来記録も残っている。巡航汽船の定員は35人であったが,60人近い乗船で定員オーバーの運航も恒常化していた。

 大正6(1917)年10月9日に,第八巡航丸が老津(豊橋市老津町)の森崎沖で沈没し,死者22人を出す海難事故が起きた。渥美巡航株式会社は,これを機に解散したが,その後,会社は再建された。渥美電鉄の開通で乗客が減少し,大正13(1924)年に解散した。


▶ 大正1年の書籍の広告より

 ・来賓者と確定できる証拠は無いが、状況から見て該当者だと思う

 ・明治29年り完工式の時は渥美巡航は出来てないので、前身の会社の関係者か?

 ・大正1年時点では。牟呂と田原間の渡船会社(渥美巡航)の社長



牟呂史より



▶ 牟呂史 より

 ・明治24年からの渥美郡会議員選挙で牟呂村に1議席あり、2度議員を務めている(牟呂史333頁より)