後藤増平

 ・後藤家は明治の初め頃には紅葉屋と同じ町内(鉄砲町)で「糸屋」として商いしていたよう

 ・紅葉屋(財閥)を参考にしたか?、洋物を商うようになり、その後、殖産事業、その後も紅葉屋財閥と

  同じように銀行や会社経営に転換していく

 ・初代金之助や4代重助は2代後藤増平の経営能力を評価していたと推測する

 ・同じ鉄砲町で親交もあるはずで、干満様の寄進になったと推測する

 ・2代後藤増平は明治40年には名古屋電気鉄道の取締役になっている


▶ 2代後藤増平は明治40年に名古屋電気鉄道の取締役であった

 ・明治28年には神野金之助と富田重助が九日会に入っている、同じ鉄砲町として親交があったと

  考えられ、後に名古屋電気鉄道では部下(取締役)となる 

 ・3代増平は明治33年生まれなので、寄進者は2代目増平である


▶ 2代後藤増平は明治33年当時は尾張銀行の頭取だった

 ・尾張銀行は明治27年~大正12年(大正12年に尾三商業銀行となる

 ・当時の明治銀行の頭取は初代神野金之助であった

 ・2代後藤増平は紅葉屋財閥と同じ業態で発展している(洋物 → 殖産事業  銀行他


 2代後藤増平の人事興信録(大正4年の書籍より)


▶ 大正3年の糸増と紅葉屋